心に
◇2
あの少女は死んだ。
最初は気まぐれに観ただけだった。足を引きずるのにもようやく慣れた頃。日本へ送り返されてから見通しがぼやけ、新たな物書きの仕事にも慣れていない頃。
打ち合わせまでの時間を大幅に余らせて、何をしていいかわからず、開場しているスクリーンを選んで券を買っただけで、どんな映画かも確認しなかった。
映画の内容はおそらくミステリーだった。洋館に集まったある一族。富豪の遺産をめぐる静かな攻防。唯一の遺産相続権を持つ彼女は悲しみに暮れることすら許されず、喧騒を避けて自らの部屋に籠っている。そして探偵に誓わせる。
「君をここから解放してみせる」
だが、次に会う時には彼女は死んでしまっていた。密室を破ると赤い血だまりの中で眠るように彼女は横たわっていた。
近江が演じる少女は、その部屋から一歩も出ることなく死んだのだ。
決して現実と虚構の区別がつかないわけではない。設定は紋切り型の、残酷な物語だと思うだけだった。連日の疲労でうつらうつらと目を閉じた時もあって断片的にしか記憶していない。探偵によってトリックの解明は滞りなく終わり、真犯人は狂奔ののちに死んだ。映画館を出たらガラスに映った自分の姿が見え、スーツの崩れを整えると打ち合わせの会場へ向かった。
その後テレビで笑顔を浮かべ受け答えをする彼女を見て、私はようやく役名としてその少女の名を、そして『近江絢子』を知った。
映画はかなり話題になっていたし興業的にも成功作だったと聞いている。誰もがラストの意外性や映像の美しさには触れるのだが、少女の死について『疑問を持つ者』はもちろん批評する者の中には居なかった。
やはり死んだ。かわいそうだが。
当たり前だと、言っているように聞こえた。
私も仕事に忙殺しつつあった。
だがそのうち、ふとした時に思い出して、頭から離れないようになった。少女が居た、いくつかのシーン。美しさに思わず息をのみ、そしてグロテスクな悲壮を観客に抱かせるもの。
これも魔性、と言っていいのだろうか。
夜を瞬間的に塗り替える閃光弾に似ていた。生々しい女性の美ではなく、地に足をつかない妖精の美でもなく。破滅の知らせとわかりながら、引き込まれずにはいられぬ美だった。
あの映像以外には、空想の産物である少女はこの世の痕跡を残しはできない。登場して死んだ、それまでの姿のみが少女の一生だった。彼女の死は幾万人が見届けた。私だけが知っているわけではない。だが、これほど強烈に記憶しているのは、もしかしたら私だけではないのか。そう錯覚させる。
ただ演じていた近江だけが、あの少女の痕跡をその身に残している。
彼女の繰り返されたたった一度の死は、私の記憶と繋がり固定されてしまったのかもしれない。
それは私の人生を表す、ひとつの命題にかかわっているのだろう。『誰かの役に立って死にたかった』その欲求。
願いは果たされなかったほうが、強烈に記憶に残っている。
「えっ。あの、どういうことですか」
洞は己の顔を撫でた。
「だってそんなはずはないんです。僕は確かに、あなたを人間として解放したんですから」
洞の言葉に、近江は耳を疑った。
「魂にまで作用……ええっと、すみません。まだ僕にも知らないことが多いので。だけどそれならわかるはずだ」
悪魔の残滓は魂の監査の仕方まで教えていたのか
「近江さん、今のあなたは吸血鬼じゃない。人間です」
◆9
近江は研究室のドアを叩いた。
「藤木教授、お客様が来られました」
扉を開けて出迎えたのは若い女性で、ゼミの学生だろう。最近流行している新型ウィルスによって屋内でもマスクをしているのは珍しくなくなった。
奥には四十代くらいの男が居た。白髪交じりの髪。本棚の整理を切り上げてオフィスチェアに腰かける。
近江はサングラスと幅広の帽子を取らないまま会釈し、手前のソファへ腰かける。
「彼から電話が来た時は、心臓が飛び出るかと思いました」
藤木はテレビ出演の仕事は全て断って、この大学で臨床心理の講義をしているそうだ。
「自分も学び直すつもりで戻ってきました。私は裏切りましたから。彼も、私自身も」
あのゲーム盤の中で洞を陥れたことは近江も知らされている。
それでも洞自身から「精神的な方向からのアプローチが有効かと」と彼を紹介されたのだから、信頼する他になかった。
「精神科は何をする場所だと思いますか」
近江は、わずかに戸惑いながらも答える。
「えっと……正直に言うと、刑務所のような場所のイメージが有りますね」
「それは旧来の閉鎖病棟としての機能ですね」
今も残ってはいますが。と、藤木は付け加える。彼は正面を向かずデスクトップPCへ身体を向けている。
「精神科が対処するのは、心そのものに現れる症状です。いつまでも晴れない不安や、妄想や、幻覚といったもの。それが身体の異常で引き起こされているのか心的外傷によってかも調べます。対して心療内科であれば、ストレスによって起きた身体の症状に対処します。腹痛を普通の内科で診てもらっても何も原因が見つからなければそちらへ移るといったように」
落ち着いた声で藤木は説明する。
近江はマスクを外し、唇を開いた。
「じゃあ、この歯は専門外でしょうか」
「わかりません」
「はい?」
近江は思わず聴き返してしまった。
「永久歯も変化していくものですよ。俳優さんは矯正する方が多いですが、個人差があって当然なんです」
藤木は変わらず、少し微笑んで続けた。
精神安定剤でも飲んでいるのかと近江の心には浮かんだが、彼にしてみれば自分は患者の一人でしかないと思い直すだけだった。
こちらへ合そうとしない両眼は楽しんでいるようにすら近江には見えたが、それはただ己の焦りが生み出した被害妄想だと考え直す。
「口腔に刺さって痛いのであれば友人のクリニックを紹介します」
「大丈夫です……」
「イヌイットはアザラシの血を飲むそうですよ」
次の質問をする前に藤木は話し続けた。
「血は栄養価が高いですよね。とはいえヒトの血は感染症リスクが高いので避けた方がいいと思いますが」
思わずマスクの下で頬が熱くなる。
「普通は食べないようなものを飲食してしまうこと、異食や偏食と呼ぶことが多いですが、それだってそこまで珍しい症状ではないんです。聞いたことはありませんか。妊婦さんが土壁を食べてしまう話とか。自分の髪を噛みちぎって飲み込んでしまう人とか、延々と氷だけを齧りたくなるとか。環境を変えたら収まる例も多い。通常の食事が喉を通らないのであれば摂食障害の可能性も考えますけど」
「はあ……いえ、まだ固形の食事もできるので」
「太陽光が怖いそうですが、皮膚症状は無いそうですね。流れる水は平気ですか。十字架は」
「………」
近江の様子を横目で見て、藤木は咳ばらいをした。
「人間ドックの結果は異常なし。少し貧血気味ですが十分健康体です」
解っていた。一週間前に意を決して検査へ臨んだが、この世界で呼び名が付くような異常は見つからなかった。
「あなたはまるで吸血鬼のような特徴が出ていて、血を飲むことへの依存となってしまっていて、社会的孤立を感じてるとかではないものの、戸惑っている。妄想で全て説明がつくなら確かに私の専門分野ですが……結論を出すのは、まだ早いですよね?」
そう訊ねられて、近江は無言で頷く。
「まずはあなたに起こっている現象に『吸血鬼化』ではない名称を与えましょう。折り合いを付けることが大事ですから」
「折り合い、ですか」
「そう、世界との折り合い。あなた自身の辛さを知ることでもある」
つらさ。
近江は戸惑ってしまう。あのゲーム盤での日々を境にして、そんなものはとっくに『どうでもよく』なったのだと思っていたから。
「あなた自身のことについて、いくつか質問をします。よろしいですか」
藤木は近江の表情を窺いながら、慎重に訊ねた。
◆1
近江が事務所に入ると、机に週刊誌を広げて社長達が渋い顔をしていた。
「おはようございます」
近江はいつもの様に微笑んで声をかけた。彼らの視線が刺さる。
「あの」
「撮影の打ち合わせ行ってきます」
近くに居たマネージャーが前に出て、その視線を遮った。彼らは互いに顔を見合わせて、事務所を出る近江を見送った。
これまで撮られたことがなかったわけではない。
仕事漬けの人生でキャリアに致命打を与えるような写真が撮られるはずもなく、記事にしがいのなさでかえって彼らに悪く思ったくらいだった。踊る文字は『禁欲的な生活』や『買い食い』等で、番組トークで振られた時は「トークで受け応えをする近江絢子」として驚いて、もう一度『意外な一面』をテレビカメラに収めてもらう。あの頃の近江にとってはそうするだけの材料でしかなかった。
とはいえ、今はそれだけでは終わらないだろう。
「事務所で何を」
近江は前に座るマネージャーへ尋ねてみる。
「気にしなくていいです」
彼は昼食も仕出し弁当で済ませて、いつもしていたニンニク臭も抑えられている。近江の傍でずっとスケジュール帳を見ていた。
楽屋の入口がノックされる。マネージャーは歩いてドアは開かないまま応じた。
「軍事監修の菅原です。近江さんと少しお話を……」
「無理です」
ドアの向こう側で、落ち着いた声は射竦められたように止まってしまった。
近江は深く呼吸を吐いて気を抑える。
「大丈夫だから、彼は」
マネージャーは相変わらずよくわからない表情で、近江を窺っていた。
食欲を抑えられるか、少しだけ近江は心配になった。
解放されたテラスへ向かう。
近江が頭を下げると同時に彼の声が響いた。
「申し訳ない……!」
その反応も近江は想定済みだったので、すかさず言葉を続ける。
「あのー、菅原さんは関係ありませんし。私から強引に誘ったわけですから。顔を上げてください」
「いや、いいえ、近江さんの経歴に傷をつけるような、誤解とはいえ、まさか、あのような……」
「ですから、それです」
菅原の顔が上がった。
「私にとっては全然、傷にならないんです。違約金を払うようなオファーも今はありませんし」
菅原はピンと来ていないようで、ただいつもの硬い表情で近江を見ていた。
「ああ……その、芸能スキャンダルなんて見ないでしょうけど、復帰直後も色々と書かれていたので。マネージャーをたくさん替えたのでそこからですね。全部チェックしてます。『悪女』とか『冷血』とか『女王様』、『女帝』でしたっけ? まあ、実際その通りだし、遡ってあの長いお休みについてもあることないこと……」
相手の額の皺が濃くなったのを見て、近江は例を出すのを切り上げた。
「だから今更というか、デビュー当時みたいな扱いはもうとっくに終わってるから。私のことは気負わないでください。むしろ菅原さん自身のことが心配です」
笑い飛ばしていく。この状況を。
『心の底からの笑顔を』と近江は自分に言い聞かせる。そして笑顔を表出させる。いつもやっているように。
何も知らない振りをして微笑んでいれば、泡沫の噂は己を彩るアクセサリーになり、そして意識しなくなっていく。世間も、自分自身も。
「大丈夫ですか? 私みたいなのと噂されて、お仕事に影響していませんか?」
「あなたは」
彼が口を開いた。
「あなたはずっとそうやって、生きて来たのですか」
機械のような顔は珍しく、哀しさを表に出していた。
老兵の緩んで落ちた瞼は、僅かに震えて見えた。
近江はその光景を、映画のワンシーンのようだと思った。演技に使えはしないかという考えだけが浮かんでいた。
「はい、そうですけど」
笑い飛ばす調子からはなかなか抜け出せず、近江にはどうして菅原が嘆くのかわからなかった。
◆3
演じていた近江だけが、あの少女の痕跡をその身に残している。
◇4
「菅原さん、観ていたんですか」
にわかに興奮した口調で、洞が言った。
近江のデビュー作のタイトルを菅原は覚えていた。
「ええ、まあ。しかし細かい所までは覚えていなくて……」
「観返しますか」
「いえ、そこまでして貰うわけには」
洞が腰を上げる。彼には珍しく、熱気がこもった口調で続ける。
「とにかく秀逸なんですよ。監督の美意識と脚本の理解がすばらしくて、犬神家のデッドコピーと言う人もいるけど僕はそうは思わない。キャスティングも全てを含めて奇跡の映画なんです。いえ別に自分の映画版の出来に不満があるわけではなくて。名作の定義こそ人それぞれだしね。ただもう少し、細かい所に気を使ってほしかったというか……」
「観ていましたけど、ただ、ひどい話だと」
洞が絶句する。
「いえ名作を否定するわけではなくてですね、その……子供が死ぬじゃないですか」
ほっとしたように、洞が肩を下ろす。
「ああ、そう、そうですよね。たしかに」
DVDを手にしたまま、机へ戻って来た。
「菅原さんでしたら、僕なんかよりも死を間近に見ていると思っていました」
「だからこそですよ。慣れるものではありません」
「すみません、なんだか、申し訳ない」
「洞さんのお仕事は否定していません」
菅原は、視線を落としたまま呟く。
「ですから、個人としての感想でしかないんです。子供が何も出来ずに死んでしまうのは、心にこたえるんですよ」
洞が身を乗り出す。
「菅原さん。あの時の近江さんは大事な役だったんです」
一人にしてほしい、と、部屋を出て来た。
トイレの個室で泣きわめこうが、この絶望は消えないような気がした。
なにもできず廊下で立ちすくんでいる。
なので、聴こえていた。
「彼女は主人公の心に生きているんです」
洞は意志を沈めた声で、言った。
「彼女は、主人公を事件に立ち向かわせる勇気になり、決意となって生きている。僕はそのように解釈しています」
洞が不安になったのか、言葉を詰まらせるのを見て、菅原はやっと声を出した。
「心に」
「そうです。主人公の行動原理は大事なんです。これはロマンチックな妄想などではなくて、いや、違わないのかもしれないけど、とにかく特別なものなんです。彼女と彼女の死は」
洞も自分で何を言ってるかわからなくなって来てるのだろう。恥ずかし気にはにかみながら、しかし、言葉に嘘はなかった。
「だってほら、初恋は特別って、言うじゃないですか」
◇5
あの少女は死んだ。
最初は気まぐれに観ただけだった。
『誰かの役に立って死にたかった』その欲求。
その欲求は、彼女の死に後押しされていた。
◇6
「ともあれ、治す方法はこちらでも考えてみます。精神的な方向からのアプローチなら藤木先生に頼んでみても」
玄関先まで見送りに来た洞に、近江は頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いやいや、そんな」
「本当に」
隣には菅原が立っている。
◆7
夕日は公園を照らすだけだ。
「懐かしい」
ブランコの座面に、少し窮屈そうに菅原が腰を掛けた。
「どこまで高く揺らせるか競争したり、靴飛ばしをしたりしたなあ。もう半世紀も昔のことですが」
目を細めながら
「近江さんの子供の頃は」
「あまり覚えていなくて」
「すみません。言い辛いことですか」
「いいえ」
どこかの子供がブランコを漕ぐのを、遠くで見ていた記憶が近江の頭に浮かぶ。自虐的な気分になるだけで傷付いたわけではない。
「ぼんやりと、友達よりも少し早く、一人で生きないとダメだと思っていた気がします。必死だったんでしょうね。百個くらいオーディションに落とされて、養成所で今の社長にスカウトされて」
気が付くと喋りはじめていた。
「いつも怖くなるんです。いつか『使えなくなった』って言われるんじゃないかって。納得しないままレッスンしてそれらしく謝るのも、それらしく礼を言うのも、いつの間にか覚えていて。おかげで評判は悪くならなかったけど……」
薄れかけていた記憶を引き出すために歩き出す。長く伸びた影は運ぶ足に合わせて、近江の身体から離れたり付いたりする。幼い頃と同じように。
空を仰いだ。
ここで話を止めてしまっては、忘れてしまうかもしれない。
「一番つらかったのは初めてメインを貰った役、お嬢様の役だったなあ。大嫌いだった」
物語に干渉もできない箱入り娘。
菅原の表情を伺うことは出来ない。自分の演技が視聴者にどう見られていたかなんて近江は知りたくない。それでも続ける。
「だって、あまりにその時の私に近過ぎたもの。今考えると、あれが一番良くできた気がする。もちろん、どんな役でも常に全力のつもりだったけど。あの時の状況から本当に『抜け出したい』っていう感情で望んでましたから」
思い出を自分から切り離して語るのも近江は慣れてしまった。
インタビューでは削除されてしまう部分、最初から語らない時も多い。
それでも忘れたくはなくて、何度も。
「あの役をやり切ってから、『ああ、これから先も仕事が楽しくなる事なんてないんだ』とやっとわかって、節操なくなんでも演ってたけど、ボロも出るし、だんだんおばさんになっていくし。役もそういう嫌味な役ばっかりになるし」
だけどそれが『私』なんですよねえ。近江は朗らかに諦めの言葉を吐く。
「どれもこれも、『私』を認められて『私』として生きるためにやっていたのに。いつの間にか私なんてどうでも良くなってたんです。ガサツで冷酷な『本当の私』とか後生大事に守っててもお金にならないし。みんな、名優・近江絢子が見たいだけなんだから」
それでも耐えろ。なにをしてもいい、と、許される日までは。かつて近江が自分に課していた誓いだった。
「でも耐えられなかった」
その誓いは、あの日決壊した。
振り返る。夕焼けに照らされた菅原の表情は変わらなかった。いつも通り。戦場でもこの場でも、真剣な表情だった。
「全くの他人だったでしょう。あの日までは。あなたはただ、私の顔を見たことがあっただけで。私は、せいぜいお名前を知っていた程度で」
「そうですね。お互いの成果物をただ消費していただけでした」
菅原は低い声で、なんでもないように呟いた。
ただそこにあるだけ。遠い世界の存在。
「そんな縁もゆかりもない私を、あなたは守ってくれました」
「生存率を上げるためでした。あの時は必死で……」
「知っています」
声を遮られ菅原は言い淀んだ。少しは特別な感情があったのかもしれない。だが、どうでもいい。
「それでも」
声は震えていた。演技ではない。近江の中に残っていた慟哭が、唇を動かして出した声だ。
「菅原さん。今でも、ずっと、私を守って、いただいて。……ありがとうございます」
ずっと考えていた。
いつか言おうとして、そのままほったらかしだった。
「ごめんなさい」
瞼から溢れた液体が、顔を流れていく。脚の力が抜けて、気が付くとその場にしゃがみ込んでいた。
「ずっと。言わなきゃと、思っていたのに。ずっと。私は、自分のことに必死で……」
近江は、言葉を続けることができなかった。
『近江絢子』を演じてきた。空っぽの自分に、懸命に、何が戻ってくるわけでもないのに、守ってくれた。生かされていた。
彼にだけではない。
ようやく、気が付けたのだ。
夕日は公園を照らすだけだ。
なんの見返りも太陽は求めはしない。
頭上から声が聞こえてくる。
「それは、自分もです。私だって、自己満足なんです。ただ守りたいと……ただ、守って、僅かな間でもいい、笑顔が見れたならそれで良かった。手前勝手な願望です」
息を詰めながらその声が言う。いつもよりも上ずった声で。
「その勝手な願望を、あなたは叶えてくれた」
近江は子供のように泣き続けた。
◆8
「さよならですね。これで」
近江は言った。
駅前のタクシー乗り場で、並んで立っている。
「ええ」
「それでは」
彼女が座席に座ったのを見て、菅原は、また引きずり込まれるようなことはないと解っていた。
それでも言った。
「またお会いすることがあれば」
また、お会いできれば。
どうしようもない、手前勝手な願望だが、彼女は笑って答えた。
「はい、また会えれば」
たとえば恋を、現代人は『狩り』に例える。
天敵も失い、恋愛というここ数百年で発展した目新しい習慣によって、疑似的な狩猟本能を発散しようとしているのか。
吸血鬼となった時に感じたのは、競争からひとつ抜き出た安堵と、支配欲を満たされた喜びだった。
たとえそれが錯覚でも。無意識の演技でも。
近江は、一つの恋が終わったことに気付いていた。
終