兵士と女帝
■.楽屋
メイクスタッフが気付いた。
「菅原さん、ここ」
鏡で反転した顔。人差し指で自身の首を軽く叩き、彼女は彼の身に残る異変の跡を指し示す。
菅原の左の首筋には細い絆創膏が二つあった。注意して見ると鬱血した肌が隠れきれずに露出している。
「目立ちますか」
「大丈夫だとは思いますけど、念のため塗りましょうか」
彼女は答えると同時にチューブから出したベージュ色のしずくを指に取り、傷に触らぬようテープの境界を塗り込める。ファンデーションをブラシではたくと肌と見分けがつかなくなる。余計な作業をむしろ腕を誇るかのように彼女は完遂しつつあった。
化粧品が自分に使われるなど昔の菅原は考えもしなかったが、照明の熱は汗を流させる。討論の場では涼しい顔をしたほうがいい。戦場のカモフラージュと同じだ。
菅原は見慣れた自身の顔を改めて観察した。さがってきた瞼で半ば隠された黒い瞳。白髪染めの色に染まった髪と、ここ数年でいっそう深くなった頬の皺。染みついた剣呑な雰囲気を除けばどこにでもいる中年の男だった。
「良い人でもできました?」
「いえ、そういうわけでは」
「じゃあ悪い人ですかね」
昨夜の恋愛ドラマの言い回しを真似た声は、こらえ切れておらず語尾がはずんでいた。彼女の高揚に水を差すのも気が引けたので、菅原はあいまいに答える。
「悪い人ではないと思います」
1.クランクアップ
事務所の社長を前にして近江は身を竦ませた。あの日のスタッフ達にしたように頭を深く下げる。
社長はすでに顔全体が赤くなっている。
「まったく名優・近江絢子は役に熱が入りすぎる」
酒気を帯びた大声を会場に響かせ、彼はグラスを左に右にと掲げてみせる。芝居がかった仕草に幾人かがこちらを向いて笑い始める。彼もまた厳しい表情をほころばせてグラスの中身を飲み干した。気を遣われていると近江にはわかった。
社長の肩越しに見える。若い参加者が集まっているテーブルで、密通の相手役だった俳優が囲まれている。談笑しながら、首に貼った大きな絆創膏を指先でしきりに確認していた。ラブシーンも何度もやっていれば慣れてしまって、相手が若くとも老人でも何の感情も引きずらない。だが、撮影に障るような失態だけは近江自身許せなかった。
それよりも臭気がどうしても気になる。
嗅覚が敏感になっている。アルコールが分解されて吐き出された。蓋を開けたままのビュッフェが混然となっている。そして人の……。月経中の感覚と似ているが今は違う。近江は知っていた。
以前よりもゆっくりだけど、あの時と同じ。
「まあ。溜まってるならね、相談乗るよ」
女優の表情筋は見事な笑顔を作って耐えた。
「近江さん。監督から電話が来まして」
移動中のタクシーで、近江はマネージャーと午後の確認をしていた。巨体を助手席にねじ込んでいる彼が喋るたび、エアコンの風に乗ってニンニクと油の臭気が漂ってくる。休憩の合間にまた食べてきたらしい。復帰後から八代目になるマネージャーは、週に十回はラーメンと自己紹介で教えてくれた。言葉不足に気付いたか補足する。
「あ、次の映画の監督です。特別講師のスケジュールを抑えられたので、今日のレッスンはその指導が加わります」
「わかりました」
喉が渇く。
トマトジュースで鉄分錠剤を流し込んでみたが、乾きが癒えるはずもない。風景に馬刺しの看板が見えた。試してみようか。獣臭いほど良いわけでもないのだが。考えながらあの感覚に近江は思いをはせる。
肉をよく食べる。新鮮な方が良い。バラエティでマグロ解体のVTRを見せられた時はムラっときてしまった。ホースで水をかけられる様をもったいなく感じた。ステーキが食べたい。下味もない炙っただけの、生でもいいくらいだ。インタビューで口を滑らせてから贈答品に肉が多くなった。ブーダンは断らないと。油脂交じりの凝固したもので渇きが癒えるはずもない。ほとんど事務所の人間に振る舞った。食レポの仕事。だんだん本業から離れてタレントじみてきている。先週受けた雑誌のインタビューには『肉食系女優』と一文加えられていた。「本を出さないか」とも言われたが、今度は筆を滑らせてしまいそうで怖い。そうなれば肉食程度ではすまないだろう。これまで降りていったマネージャーの誰かが情報を売るかもしれない。記事が載るのは週刊誌ではないし、私が連れていかれるのは病院ではないかもしれない。どうして今になって、皆が彼女の心を陽光の下に暴こうとしているのだろうか。近江は憂鬱だった。
マネージャーの深呼吸と共にもう一度ニンニク臭が鼻を刺激し、近江の意識を現実に戻す。こもってきた空気に耐え切れず窓を開ける。
「すみません、息すごいですか」
「いいえ」
彼は有能だ。仕事ぶりはまだ初々しいが、近江を抑えてくれている。社交辞令としてしか伝わらないにしても、感謝を込めて微笑んだ。
「ありがとう」
2.レッスン
監督は腕時計を何度も確認しながら、丸めた台本をもてあそんでいた。
彼の処女作で近江は初めてメイン級を演じた。それが当たってからの付き合いで、彼女のキャリアを押し上げたと言っても過言ではない。失踪のことも話題には出さず、昨日も会ったかのような調子でオーディションに誘われた。
監督は口髭を生やしていた。貫禄を出そうとしているのか、昔から知る近江から見れば違和感しかない。
そういえば彼の憧れはあの日死んだ中里鉄也だったか。弔報がきっかけとは限らないが、彼も役に入り始めた所かも知れない。
ストレッチは終わっていた。近江は台本を手に軽い足踏みをし身体を温めている。レッスン室には他の俳優が三人、そしてトレーナーと数人の撮影スタッフが待機している。
未来の世界。バーチャル空間で老人たちが全盛期の姿となり戦う。往年のモデルである老婆の若き姿、それが近江だ。流行の原作から綴られたシナリオは残酷な部分もあったが、監督が好みそうな情緒に満ちたシーンも存在した。当て馬の悪女よりはやりがいがあるだろう。
老いた姿はベテラン女優が演じる。お世辞にも上品な性格とは言えない。顔合わせの時、近江は彼女から未来の自分を想像せずにはいられなかった。
レッスン室の扉が開いた。
「おっ」
監督が短く歓喜の声を上げ、頭を下げる。入ってきた特別講師は片足を少し引きずるように歩く。
深く皺の刻まれた顔に近江は見覚えがあった。
「至らない点もあるかと思いますが、本日は、よろしくお願いします」
ロボットのような顔に笑顔を浮かべ、彼は拍手を送る出演者たちへ頭を下げる。
「菅原克馬です。普段は軍事評論等をしております」
そして言いそびれた自己紹介を付け足した。
近江が唖然としていると、彼もまたぎこちなく握手を求めてきた。とりあえず手を取る。
「お久しぶりです。近江さん」
「ど、どうして」
三年前。御堂省三郎誕生パーティーで起きた集団失踪。その名簿に入っている二人。ほとんどの者はすぐに連絡がつき、早ければその日に戻った者も居たためゴシップは風化しつつあったが、見る者が見れば女優と評論家という遠い職業の二人をその事件で結びつけるだろう。
菅原は右手を離すと、苦笑して疑問をこぼす。
「私もわからなくて。体術は不得意なほうですから」
「ああそれはね、以前ドキュメンタリーの仕事で取材したことがあったんですよ」
監督が快活に答えた。
「で、復帰からようやく落ち着いたと聞いて、ずうずうしくも演技指導までお願いしちゃいました」
監督の言葉は、近江の意識に入らなくなりつつあった。
あの夜のことは洞成一が隠蔽した。
近江たちの死体は残らず回収したため衆目には晒されなかった。あの日、何が起こっていたかは参加者以外に誰も知らない。
だが。
「それにしても近江さん、力付けましたよねえ」
監督が近江の演技を褒めた。人間に不可能な動きをしていないかと不安になり、近江は速度を緩める。
「銃の構え方も堂に入ってるし」
「一応、実銃は持ちましたからね」
菅原はあっさりと答えた。無意識なのか自慢がしたかったのか。監督は意外そうに近江と菅原の顔を見比べる。
「え、海外とか?」
近江は曖昧に笑うだけにして次の殺陣に入った。
演技が向上したのは不自然には映らないはずだ。空いた時間を使い殺陣の道場に通っていたのだから。近江は努力を改めて続けていくつもりだったのだ。彼女は過去の延長線上にいる『近江絢子』を演じていようとしている。
銃を奪い、地面に転がした敵を殴る。原作にはないが演出で入った荒々しい敵役の動き。
「失礼」
菅原が断りをいれ近江の腰に腕を回した。モデルガンを振り下ろした彼女の動きを速度を落として再現する。
「これだと暴発の危険があります。なので……」
顔が近付く。首筋との距離。
近江の眼にはくっきりと脈の色が見えた。
血。
制汗剤の刺激臭がする。だが隠しきれていない。ここに血が流れていると、教えている。
血が流れている。
血が。
血。
血
一瞬にして世界が回った。
菅原が視界から消え、レッスンルームの天井が見える。
「だ、大丈夫ですかっ近江さん」
血の味はしない。
近江が状況を理解するまでに数秒かかった。首に食らいつく寸前、気配を察した菅原に投げられたのだ。背中が床に当たった感覚はあるが痛くはない。
「すみません。私としたことが、大事な俳優にとんでもないことを……」
「いえいえ」
慌てた菅原の声に応える。首を軽く振りながら起き上がると、誰もが呆然と近江を見ている。メイン女優が突然宙を舞ったのだから仕方ない。血の味はしない。
顔を青ざめさせた菅原の顔を、近江は見据える。
「受け身を試せる機会、ありがとうございます」
スタッフがそれぞれの仕事へ戻る。
微笑を顔に貼り付かせたまま、近江は口の中を確認するように舌を動かした。怪我をしたわけではない。当然、血の味はしなかった。
血は、飲めなかった。
ぼんやりと座り込んでいる近江を見かねて女性スタッフが近付いてくる。肩に手が触れ、近江が振り向いた先には無防備な白い首が晒されていた。
3.内幕
湿った唇を動かし、近江は呟いた。
「ごめんなさい」
「近江さん!」
上擦った声は監督だろうか。近江は確認する間もなく駆け出していた。扉の裏にいた大道具班にぶつかる。
「ごめんなさい」
謝り、駆ける。白い首。若い彼女に目立つ傷をつけてしまって申し訳ない。同時に歓喜が心を支配しつつある。レッスンを放り出すなんて何年ぶりかと、俯瞰する自分も居る。
食らいついた時に分かってしまった。彼女の驚きが恐怖に変わった瞬間、近江は捕食者としての優越感を得ていた。一滴にも満たない血の味がした。
なんてことを。
違う。心にもない懺悔だ。
血の詰まった袋にしか見えていないくせに。
近江は自身の心がまたも怪物に染まりつつあるのを自覚する。それを隠すために辿り着いたのは彼女に用意された楽屋だった。後ろ手に扉を閉め鍵をかける。中には誰もいない。上がった息を落ち着かせようとするも嗚咽がこみあげてくる。誰のために泣こうとしているのか。近江にはわからなかった。
暫くして足音が追ってくる。声が次々に彼女の名前を呼ぶ。ノックの音。どうしました。近江は耳をふさぐ。
「ごめんなさい」
それ以外は何も言うことが出来ない。近江はうずくまったまま、嵐が通り過ぎるのを待った。
話し合う声も消え、足音が遠ざかっていく。
こんなことが続けば女優のキャリアも終わる。と、やはり冷静な自分が呆れたように笑い、人生の逆算を始める。
「近江さん」
閉じたままの扉の向こうからひとつの声が聞こえた。落ち着いた男の声。
「ええと……ですね。アメリカの方ですが、知り合いの女性に、そうした活動をしている人が居りますので…………人それぞれ、ですからね。恋愛対象は……」
「違います!」
つい叫んでいた。
我にかえった近江は息をつき、扉をわずかに開ける。
菅原克馬。
念のため扉の陰も確認する。廊下は他には誰も居ない。彼ひとりだけだ。噂が菅原を発端に生まれるところだった。近江は呼吸を整える。
周囲を確認する女優を、菅原は困ったように目で追っていた。
「違うんです」
震える唇を手の甲で隠す。
「もしかして……近江さん」
近江は覚悟を決めた。
「まだ」
「ええ」
彼は右手で顔を覆い、汗をぬぐった。
わずかな沈黙ののち、姿勢を低くして、近江の眼を、そして口元を覗き込んだ。
唇を緩く開けて、近江は告白した。
「まだ、なんです」
鋭く尖った牙。舌で舐めると溝が開いているのがわかる。吸血のための管になる。近江は知っていた。
「ごめんなさい。突然怒鳴ったりして」
「いえ、こちらこそ……」
菅原は困った様子で視線を泳がせる。二度、三度、廊下を確認して、やっと言葉をつづけた。
「さすがに、ドラキュラに詳しい方は紹介できませんね」
菅原は冗談ともつかない言葉のあと、不器用に笑ってみせた。近江もようやく、表情をほころばせた。
「退治されてしまいそうですものね」
閉じられた楽屋の中。ペットボトルから紙コップに注いだ緑茶を飲みながら、近江と菅原は話しはじめる。
「洞さんに頼まなかったんでしょうか。人間の肉体で戻してもらうよう」
「こちらに戻ってきた日、牙はなかったんです。気付いたのは先週からで、犬歯の形が変わっていて」
洞なら言わなくともそうしているはずだ。
「吸血鬼とは魂のあり方、ということなのでしょうか」
「………」
重い近江の言葉に菅原は答えなかった。
監督は驚いてはいたが怒った様子はない。今日はレッスンはできないが、また次に持ち越せる。話はついているのでこのまま帰っても大丈夫だ。近江以外の適役はいないとも、菅原は説明した。吸血鬼に変わった彼女の聴覚は扉越しに全てを把握していたのだが、彼の優しい言葉にうなずき、ありがとうございますと答えた。
血の味は流れて消え、近江の心は落ち着いていたが、喉の渇きも戻ってきていた。
「菅原さん、今日時間があるようなら、私の部屋にでも」
「それは……」
「あっ」
頬が熱くなる。
「違うんですよ。違うんです。ただ、一緒にお食事するついでに……ついでにというのは、その、血を」
菅原が自分の首を押さえる。顔は不器用ながら笑っているが警戒がにじみ出ていた。レッスン室で近江が投げ飛ばされる直前と同じだ。
その警戒はスキャンダルに対してでもある。歳は親子ほども離れているとはいえ、独身の男女が行動を共にして噂も立たないはずはない。安心させなければと近江は懸命に考える。
「血が飲みたいっていうのは、性欲とは関係ないのでっ!」
菅原の表情が完全に固まった。
性欲とは関係ないのだ。どちらかと言えば食欲の範疇に入る。もっと言えば嗜好品の中毒に近い。事実だ。
「ですから誤解はしないでください。まあ、血さえ飲めれば誤解されても……いえ、そうじゃなくて。あの、ごめんなさい。そんな人じゃないとよくわかってますから。嫌でしたら、無理には吸いませんから」
事実だが、いったい何を弁解しているのか。
失礼がないようにと気を使うほど無礼になり、安心させようとするほど怪しくなっていく。近江は分からなくなっていた。
一方。菅原にとっては親子ほど年の離れた女が、それもファンとして接していた女優が「性欲」がどうなどと叫ぶ事態こそが容易に対応しがたく、顔色も悪くならざるをえないのだが。近江にしてみれば下世話な役柄もすべて彼女の一部であった。そこにギャップはない。
「その」
彼が一言発する。それから長い沈黙が流れる。
逡巡していたが、どうにか理性の顔を保ったまま菅原は反論した。
「でしたら、その……家に行く必要もないのでは」
深く息をつく。
「物陰、とか」
物陰に連れ込むという言葉もなんだか淫猥な想像につながってしまう。発言した菅原も気付いたのか、堅物然とした顔をさらに険しくした。
近江は笑い始めた。菅原も顔を伏せて続く。そうして二人とも気まずい空気を散らすことにした。
4.アフター
「煙草を吸うように気軽に飲める場所があればいいのに」
「それは難しいでしょう」
近江の独り言に生真面目な答えが返ってくる。
マネージャーを事務所へ戻らせて、近江はタクシーを待っていた。その時に否応なく吸血欲は抑えられた。しばらく菅原と話をしたいと正直に告げると、表情に乏しいマネージャーはあっさりと承諾した。そもそも近江への興味が薄そうだった。
車道を眺める近江の斜め後ろには、ボディーガードかのごとく菅原が寄り添って立っている。
歩行者信号が青に変わり、広い交差点を人が蠢く。堂々と素顔を晒していればかえって目立たない。二人が並んでいるのはタクシーを待つ行列で、通行人は時折、顔を覗いて去っていくだけだ。近江の表情は物憂げに映るだろう。
「お願いしようとしたんですよ、同じことを。あの悪魔に。馬鹿でしょう」
悪魔とは秋山と名乗った存在のことだ。怪物の近江は人間の近江を『馬鹿』だと評したが、一生ものの願いをそんなことに使おうとしたのも愚かと言わずなんだろうか。近江は自嘲を息にのせて漏らす。
だが菅原は黙って首を横に振った。
その反応が近江には意外で、彼の顔を覗き込む。固く結ばれた口が開く。
「生き残るためですから」
「はい?」
「自身が生き残るための願いでしょう。結局のところは」
菅原は真面目な顔で答えた。
「そこまで考えていませんよ」
馬鹿ですから。会話が続かぬよう近江は卑下を飲み込む。わざと倫理観を廃したのは優しさか。聞いてみたくなったが今はやめておいた。
人々の願望を反映した美女と同じくらい、倫理観を欠いた役を近江はよく演じた。今回の爆弾魔もその一つ。
本来の近江自身も全くの善人だとは思っていないが、人を殺し男を寝取り、恐ろしい行為をどうして彼女たちは選択したのか。昔は悩むこともあったが「客観視しては演技が嘘くさくなる」と言われた。自他を律する正義以上に我儘にふるまう悪は人気を集めるらしい。そう聞いて悪役もまた願望の反映なのだろうと近江は悟った。
髪を切るだけで敏腕女刑事になるわけではない。
近江は努力型だった。これまでに会った演者の中には、まるで巫女が霊的なものを憑依させるかのように役へ入り込む者もいたが、自分はそうはなれないと彼女は思っていた。
いや。もしかしたら俳優を続けるうちに、いつからかそうなっていたのでは。だから、吸血鬼の肉体に心が感応してしまったとは考えられないか。
ふと浮かんだ仮説に光が見えた気になったが、すぐさま、それも意思の弱さの証明でしかないことに気付く。すべてがそこへ集約していく。近江はまた息を吐いた。
菅原は巻き込まれただけだ。
心の中で唱える。近江はここで別れるつもりでいた。
勝手に利用して、先に死んだから血を吸った。それも生き残るためだったからと菅原は許すのか。達観した老兵の内心はわからないが言い出してもおかしくはない。だが今はこれ以上、仕事の関係以上に彼の助けを仰ぐつもりはなかった。
ゲーム盤を降りたら二度と会うことはないと思っていたのだから。
タクシーのドアが開いた。菅原が頭を下げる。
近江は無意識に彼の手首をつかんでいた。
「行きましょうか」
今、彼を捕まえて笑うのは、どこから連れてきてしまった私だろうか。
近江は驚いて固まる菅原を引き入れた。
■.クランクイン
己の中で崩れ落ちつつあるイメージがなんだったのかを菅原は再認識していた。
彼女を通して菅原が見ていたのは、恐らく、あの日のスクリーンに映っていた少女だったのだろう。窓際で俯く、愁うまなざしが印象的な登場だった。役名は観終わった後に知ったはずだが、とうとう忘れてしまった。初めて近江絢子の存在を目にした映画。
舞台を降りていたあの日ですら。
演技しているとわかっていながら女優として生きる彼女を見られずにいた。大ファンと伝えていながら、最新作の連続ドラマはどうしても見続けられなかった。
無意識に避けているのだ。壊れるのを恐れて。いい歳をしてなんと夢見がちなことだろう。
そして、あの夜に彼女の言葉を聞いて、自分がどう見られているのか、見られようとしていたかに菅原は気付いた。父親でもないのに気を揉み、下心を紳士の顔で隠しているのではないかと思われるのが何よりもつらかったのだと。
はっきりとそのような疑心を打ち明けられたわけではなく、彼女はただ一言、菅原の血を飲み下してつぶやいただけだった。
貴方は血の袋でしかない。
痛切な告白は、吸血鬼の意思との闘いも知らせていた。
菅原は憤慨することもなく、恐怖心すら消え、いっそう悩みつづけるだけだった。
理想も、偏見も、立場も、種族の差も燃やし尽くされて、彼女と対等に話せる日が来るのだろうか。そうなったほうが、彼女のためになるのか。今の菅原にはまだ答えが見つからない。
だから、来たのだろう。
カメラの前で近江は演技を続ける。菅原は今度こそ直視しようと屋外の撮影所まで足を運んでいた。義足の修繕を怠った傾いた歩行は、脇腹の鈍痛となって響いた。
討論の場では涼しい顔をしたほうがよい。
だが演技の場では。
彼女は笑い、暴れ、そして怨嗟までも誠実に、心からのものに見せるため、繰り返す。とても目を背けずにはいられない景色を、神経を張り詰めて作り上げていく彼女たちを見て、菅原はこれまでの自分を恥ずかしく思った。邪魔にならぬよう遠巻きに、渡された折り畳み椅子に腰を掛けて見守っていた。
カットが入り近江が起きあがる。偽物の血も拭わず、今日だけで三十二回目の映像チェックの輪に入ると、真剣な表情でモニターを見つめる。
しばらくして微動だにしなかった監督がようやく腕組みを解いた。カメラマンといくつか話をしているが、徐々に表情をゆるめる者が増えていき、輪は散っていく。
美しいゾンビは菅原を見つけると、ぱっと少女のように笑った。
近江はもちろん、もうあの少女ではなかった。
だが確かに彼女の顔を持ち、彼女のしぐさが残っていた。それは元から近江絢子のものだったかも知れないが、演じていた近江だけが、あの少女の痕跡を持っているのは事実だった。
「ようやくOKが出ました」
菅原の前まで来て近江は報告する。現れた少女の面影はすぐに隠れ、悩まし気に目を伏せる大人の彼女がいた。
そしてもう一度開かれた時には、奥に蠱惑する怪物の気配が見えた。
「これから休憩ですけど、いいですか」
菅原の前を通り過ぎた彼女は、渡されたちり紙で名残惜しそうに偽物の血を拭いおとす。
終