お父さんって悪い人なのかしら。
だけど悪い人がこんな風に泣かないわよね。

頭の中にできた母の遺骨が持っていかれる場面。

第二と第四金曜日の夜、定休日の前。
お酒が入ると、本家の人たちにお母さんを持っていかれた時の話、泣きながら何度も謝る。私はお母さんじゃないのに。

遺骨を取られたこと、そんなに謝ること?
ただの骨なのに、言ったら怒るかな。
こんなふうに考える私がおかしいのかな。


鏡の前で自分の髪をくしけずる。鬱陶しそうに。切りたいけど伸ばしてる。
高校生時代の写真は三つ編みで写ってる。

両親が揃って映った唯一の写真は父の財布の中に入っている。
私が産まれる前。長い髪の娘と似ている。


店の手伝いをしようとして止められる。

大悟「大丈夫だから、それよりレポートは出したのか」
彩香「うるさいなあ」
大悟「こら、口が悪いぞ」

父娘のゆるやかな口論。カウンターで笑う父。

大悟「昔はお父さんと結婚するなんて言ってたのにな」

客に聞こえるように。

彩香「本当にやめて」

私が言うこと聴かないとすぐその話をする。




彩香「お父さん、進路のことだけど」

大悟「店の事も僕の事も考えなくていい。彩香は生きたいように生きたらいいんだよ」

生きたいようにったって、やりたいことなんてないのに。

家の喫茶店と、大学と、参考書を買う本屋と、友達と行ったカラオケと……
この街が、今の私に見えている世界。
産まれた時から代わり映えのない。

いつか、ここから出ていく日があるのだろうか。






交通事故現場。
乗用車の潰れた運転席。ところどころ焦げている。足元に転がっている骨の折れた傘。台風一過のしずけさ。
骨。
「あっちが悪い」
「信号無視」
「賠償」
「むしろこっちが貰いたい」
「ギリギリの経営」
「保険は…」
「休学」
擦り付けられる罪と無情に進んでいく話。

殆ど燃えた写真の残骸。
両親が揃って映った唯一の写真。
骨。
ありあわせの喪服。
骨壺を抱える細い腕。
骨。

骨だけになった父。


お父さんって悪い人だったのかしら。







数か月の記憶がない。
暗い店内でうなだれる。体が思うように動かない。
店のコミュニケーションボード。客と店主の写真。剥がしている途中で下の台にはピンと裏返した写真。
ガラス張りの扉ごしにCLOSE側のサインボードが見える。シャッターが閉じられている。

なにもなくなってしまった。

大学、行かなくていいのかな。
ああそうか、休学届け出してた。

客席のテーブルに置かれた骨壺。仕舞う場所に困って見ないようにしている。

彩香「お父さんの遺骨。何処に置こう。盗まれないようにしないと。……誰も盗らないか」

シャッターを叩かれた。
音に驚いて飛び起きる。

窓の鍵を開けて、おそるおそる覗くと、店前に腰の曲がった老人。

老人「ブレンド」
彩香「あの、すみません。お店はもう……」
老人「は?何?」

腕を伸ばして、閉店のおしらせの張り紙を指す。

老人「んー。こんなちいさな字じゃ読めねえよ。何?」

つい引きつった笑いになった。

彩香「ですから…」

老人「そんなんで生きてけるのかい?」

間。

彩香『すみません』

間。

老人「いいから店開けてくれよ」

裏の勝手口へ通す。
生活スペースの台所で淹れたコーヒーを盆にのせて、出す。

彩香「シャッターは開けられないんです。鍵、事故で、まだ返してもらってなくて」
老人「全く…」

ブツブツ言いながら、生活スペースを横ぎって店内へ勝手に入って行く老人。

彩香「困ります」
老人「そこは居間だろ。店はこっち。俺の席開いてるか?」

骨壺は視界に入ってるはずだが気にもしないで、奥の席に座る。

老人「ブレンド」

言われた通り淹れたコーヒーを置く。
熱い液体を一気に飲み干して、老人はポケットから撚れた千円札を取り出した。

彩香「あの、お代は結構です」
老人「金貰わねえとなにも上達しないだろ。親父さんから何教わってたんだ」

間。

老人「レジ! レジの鍵も取られたのか?」
彩香「それはあります。ありますからちょっと待って」

わたわた。慣れない手つきで、レジに千円札をしまう。

老人「ごちそうさま」

勝手口から帰る老人。







父の友人の卸業者。

卸「これ使って。取引先の農家で貰ったくず野菜。内緒ね」
彩香「ありがとうおじちゃん」

卸「表の張り紙、取れちゃってたけど」

店前の地面に、踏まれてよごれた閉店の張り紙。

彩香「うん、新しく作る」

彩香「その……一人だけ常連さんが来ちゃうんです。お店開けろって毎回うるさくするから、しかたなく通してるけど。結構なおじいさんで……」

卸「ああ、○○の爺さんか」

卸「いやね、孤立してるんだよ。十年前に息子夫婦に先立たれてから独りで暮らしててさ。大悟が前に話してたけど休みの時以外、毎日来てたらしい。彩香ちゃん知らないか。学校行ってたから。そっか、まだ店やってると思ってんだな…」

毎日コーヒーを一杯だけ飲んで帰る常連客。
店主と会話はしないが、いつもの席に居る。

卸「話噛み合わないだろ? ちょっとボケて来てるんだ。でもなあ、爺さん、大悟の事故から一週間くらい経ってから、急に警察署へ怒鳴り込んでさ」

彩香「え?」

卸「いや、すぐに取り押さえられて、病院連れてかれた。自分でも行ったこと忘れてるみたいだし、理由もよくわからないんだ。だけど…どう考えても大悟のことだよな」

卸「その時見てたんだよ、俺。すげえ剣幕だったよ。何もしないで見物してる自分が、恥ずかしくなった。さすがに爺さんみたいな無茶はしないよ。でも俺達だってもっと、大悟のためになんかしてやれたんじゃないかって考えちまうよな」



彩香『ごめんなさい』



卸「……彩香ちゃん? ごめんなこんな話して」

彩香「ううん平気です。野菜ありがとう」

卸「あ、ああ。爺さんがあんまり酷いようなら電話してくれ。なんとかしてやるから」

彩香「大丈夫です。ありがとう」





教会。長椅子の通路側の端に座る。

パウロ「こんにちは」

パウロ「なにか、お話したいことがあるのでは?」

隅の懺悔室が目に入る。

彩香「…大したことじゃないんです」

無言で、中央の通路を挟んで隣の長椅子の端に座る神父。視線の高さを合わせる。


彩香『すみません』


パウロ「あなた自身が語ろうとしないのなら、私はあなた自身を知りえないでしょう。他人の言葉はあなたを表すものではない」

パウロ「悲しみと向き合うのは大変なことですが、あなたの目は真っ直ぐそちらへ向いているように見えます。今あなたには、どのような言葉も入ってこないのではないでしょうか?」

彩香「あー……言葉が入ってこないのだけ、当たってるかも。でも、もともとぼんやりしてるってよく言われるし」

すこし顔がひきつった。

パウロ「いいんですよ。一応私も神父ですので、あえて聖書を開きますが」

形だけの準えだとわかる。

パウロ「ここには、人間は生まれた時から罪を犯し、清いままでは生きてはいけないと書かれています」

パウロ「それでも、誰もが『良く生きよう』と思っていて、悪くなろうとして生きる人は居ないと、私は信じています」


教会の出口へ向かう。

彩香「本当に私の事、知らないんですか?」

パウロ「すみません。つつましやかな生活をしているので」

彩香「そう……また来てもいいですか? 居心地が良いので」

パウロ「もちろん」


それから、日曜日の礼拝に通うようになった。







鍵を返してもらった。
シャッターを開けた。看板はCLOSEのままだけど。
また常連のお爺さん。

老人「調理師免許。親父のだけだろ。あんたのは?」

彩香「え? ……」

老人「まったく。火を通さないものは作っちゃだめ。サラダとか、もちろんパフェもダメ」

メモを何やら書く。

老人「メニューの中であんたでも作れる奴。あとは保健所行ったらわかるから」

彩香「はあ…いやでも、再開するとは」

老人「ごちそうさま」

コーヒーを飲んで、またよれた千円札を置いて出ていく。

別の日、保健所で冊子を貰った。

彩香「やっぱり違う……知識が昔で止まってるんだ。危なかった」


書店で資格の棚を見ている。ふと手が止まる。
お店を再開するわけじゃないのに、なにしてるんだろ。
でも、何もしないよりはいいかな。
余計なことが浮かばないから。

本を手に取る。







卸「彩香ちゃん。これ」

住所と地図が書かれた紙。野菜の入った段ボールの上に。

卸「大悟……お父さんの墓、建てたんだよ。みんなで費用持ち寄って」

困惑した顔。

彩香「まあ……ごめんなさいおじちゃん。私、何もしないで」

卸「いいんだ。俺たちがやりたくてやったんだから」

彩香『私、本当になにもしなくて……』

少し俯く。

卸「まあ、彩香ちゃんは現実主義だもんな。骨が埋まってるだけでここに大悟がいるわけじゃないけど、いつか見に行ってやってくれ」

少し間を取って、微笑む。

彩香「ありがとう」



店の事も僕の事も考えなくていい。彩香は生きたいように生きたらいいんだよ。

そんなことを言ったって、店は忘れてしまえない。
お父さんのことも。
私には他に、なにもないんだから。


慣れて来たレジ打ち。コーヒーを飲み終えたお爺さんに話しかける。

彩香『今日のコーヒー、どうでしたか』

老人「ごちそうさま」

自分のルーチンワークをこなす老人。
私もそうしていよう。考えられるようになるまでは。







少年が、空から落ちて来た。
それは不思議な力で浮き上がったり、着地するはずもなく、意外に軽い音と共にコンクリートへ叩きつけられた。

その子の表情よりも、周りの野次馬の『目』と『声』に我慢が出来ず、駆け寄る。


彩香「あなたは悪くないのよ」

必死で呼びかける。抱き寄せているので少年の顔も良く見えていない。


少年が動かなくなる。
私は立ち上がり歩き出す。野次馬が避けていく。誰の顔も見えてない。

話しかけてくる長身の男。

草薙「知り合いか」

彩香「違います」



少年の血で汚れた服が入ったゴミ袋。
何もないように、シャワーを浴びて、夕食を食べ、蒲団へ。
ルーチンワーク。
ルーチンワーク。

あなたは悪くないのよ
どうして私あんなこと言ったんだろう。


部屋の中を見上げる。箪笥の上に置かれた骨壺。

お父さん、あの時まだ意識があったら何を思っただろう。
幽霊みたいになって上から観ていたら。

悲しんだかな。
めったにないけど、怒ったかな。
それとも……

事故後の弁護士の言葉。
母の遺骨を持ち出された時のこと。
頭の中にできたイメージを、すこし変えてみる。

正。罪を着せられ糾弾される父の姿。親戚たちに見下ろされる父。
逆。罪を着せられる事故の相手。父を受け入れる母の親戚たち。

違う。

どちらも違う。
私が求めていたのは。







記憶。
大学の公衆電話で父と話していた。
窓の外は豪雨。

大悟《朝まで土砂降りらしい。今から迎えに行く》

彩香「いいって友達と帰るから」

大悟《だめだっ。大人しく待ってなさいっ》

彩香「あのねお父さん……」

電話を切られた。

彩香「ちゃんと話聞いてよ。子供じゃないんだから」

友人「彩香行こう。ウチの彼氏車で待ってるから」

彩香「えっと、ちょっと待って」

掛け直そうとして、やめる。

彩香「後で謝ればいいか」

後で謝ればいいか。

後で。

謝ればいいか。




慟哭。

『すみません』
『私が殺したのも同じ』

『ごめんなさい』
『私が父を殺したようなものなのに』

『私、本当になにもしなくて……』
『私がお父さんを』

『今日のコーヒー、どうでしたか』
『許してくれないわよね』



沈黙していた罪。

沈黙を解いても誰にも認められない罪。

ずっと、誰にも聞こえない声で叫んでいた。



「あなたは悪くないの」


あれは、私が父へ言いたかった言葉。
私が誰かから言われたかった言葉。

私が求めていた言葉。




私は、
なんて愚かだったのだろう。



涙が掛け蒲団に落ちる。
天井を向いて、蒲団をかぶって、一呼吸。


慟哭は終わり。
明日からまた、生活が始まるから。








掃除中。
ふと窓ガラスに映った顔。目元が赤い。
化粧をしてないのでそのまま見える。それでもいいかと思う。
いつものお爺さんが入店する。

老人「ブレンド」

老人「表の札、ひっくり返しといたよ」

ドア越しにCLOSEが見える。

彩香「また勝手に、困ります」


玄関へ行く。サインボードを戻そうとした時、人が居たことに気付く。
昨日、血まみれの私に話しかけて来た男の人。


間。


草薙「……店、やっぱり開いてないのか」

彩香「えっと」


老人「開いてるよ!」

店の中から声。

彩香「もう、だから……」

彼の方を見て迷い、ぎこちない微笑みを交わす。





再開した店。裏口ではなく客としてきた卸業者のおじちゃん。

卸「彼氏?」

彩香「違うって……その、新しい常連さん」

卸「顔色良くなったね」

彩香「そう?」

卸「ああ、もう大丈夫そうだ」

草薙さんが気にするように遠くから伺っている。
そちらを向くと、目が遭いそうになって、逸らす。

あ、ちょっとかわいい。

例の老人の定位置をふと見やる。

彩香「そういえば、今日は来なかった」







聞いた住所へ向かう。古い平屋で、郵便受けに溜まった新聞。
お節介好きそうな中年女性がゴミのネットを直している。

彩香「あ、あの。ここにおじいさん住んでますよね」

女性「ああ、○○さん? そういえば最近見てないのよね。ちょっと待って、あの人いきなり入ると怒鳴り散らすから」

彩香「いえ、いいです。大丈夫です」

玄関を叩こうとする女性を制止する。

彩香「よければこれ、お店再開したので」

喫茶店のチラシ。

女性「あらまあ、ありがとうね」







隣で寝ている恋人の顔を見る。

また寝ながら泣いてる。
男の人って皆こうなのかしら。
それとも私も自分が気づかないうちに、泣いていたりするのかな。



この人は悪い人なのかしら。
だけど悪い人がこんな風に泣かないわよね。



 了