お父さんって悪い人なのかしら。
だけど悪い人がこんな風に泣かないわよね。
頭の中にできた母の遺骨が持っていかれる場面。
第二と第四金曜日の夜、定休日の前。
お酒が入ると、本家の人たちにお母さんを持っていかれた時の話、泣きながら何度も謝る。私はお母さんじゃないのに。
遺骨を取られたこと、そんなに謝ること?
ただの骨なのに、言ったら怒るかな。
こんなふうに考える私がおかしいのかな。
鏡の前で自分の髪をくしけずる。鬱陶しそうに。切りたいけど伸ばしてる。
高校生時代の写真は三つ編みで写ってる。
両親が揃って映った唯一の写真は父の財布の中に入っている。
私が産まれる前。長い髪の娘と似ている。
店の手伝いをしようとして止められる。
大悟「大丈夫だから、それよりレポートは出したのか」
彩香「うるさいなあ」
大悟「こら、口が悪いぞ」
父娘のゆるやかな口論。カウンターで笑う父。
大悟「昔はお父さんと結婚するなんて言ってたのにな」
客に聞こえるように。
彩香「本当にやめて」
私が言うこと聴かないとすぐその話をする。
彩香「お父さん、進路のことだけど」
大悟「店の事も僕の事も考えなくていい。彩香は生きたいように生きたらいいんだよ」
生きたいようにったって、やりたいことなんてないのに。
家の喫茶店と、大学と、参考書を買う本屋と、友達と行ったカラオケと……
この街が、今の私に見えている世界。
産まれた時から代わり映えのない。
いつか、ここから出ていく日があるのだろうか。
◆
交通事故現場。
乗用車の潰れた運転席。ところどころ焦げている。足元に転がっている骨の折れた傘。台風一過のしずけさ。
骨。
「あっちが悪い」
「信号無視」
「賠償」
「むしろこっちが貰いたい」
「ギリギリの経営」
「保険は…」
「休学」
擦り付けられる罪と無情に進んでいく話。
殆ど燃えた写真の残骸。
両親が揃って映った唯一の写真。
骨。
ありあわせの喪服。
骨壺を抱える細い腕。
骨。
骨だけになった父。
お父さんって悪い人だったのかしら。
◆
数か月の記憶がない。
暗い店内でうなだれる。体が思うように動かない。
店のコミュニケーションボード。客と店主の写真。剥がしている途中で下の台にはピンと裏返した写真。
ガラス張りの扉ごしにCLOSE側のサインボードが見える。シャッターが閉じられている。
なにもなくなってしまった。
大学、行かなくていいのかな。
ああそうか、休学届け出してた。
客席のテーブルに置かれた骨壺。仕舞う場所に困って見ないようにしている。
彩香「お父さんの遺骨。何処に置こう。盗まれないようにしないと。……誰も盗らないか」
シャッターを叩かれた。
音に驚いて飛び起きる。
窓の鍵を開けて、おそるおそる覗くと、店前に腰の曲がった老人。
老人「ブレンド」
彩香「あの、すみません。お店はもう……」
老人「は?何?」
腕を伸ばして、閉店のおしらせの張り紙を指す。
老人「んー。こんなちいさな字じゃ読めねえよ。何?」
つい引きつった笑いになった。
彩香「ですから…」
老人「そんなんで生きてけるのかい?」
間。
彩香『すみません』
間。
老人「いいから店開けてくれよ」
裏の勝手口へ通す。
生活スペースの台所で淹れたコーヒーを盆にのせて、出す。
彩香「シャッターは開けられないんです。鍵、事故で、まだ返してもらってなくて」
老人「全く…」
ブツブツ言いながら、生活スペースを横ぎって店内へ勝手に入って行く老人。
彩香「困ります」
老人「そこは居間だろ。店はこっち。俺の席開いてるか?」
骨壺は視界に入ってるはずだが気にもしないで、奥の席に座る。
老人「ブレンド」
言われた通り淹れたコーヒーを置く。
熱い液体を一気に飲み干して、老人はポケットから撚れた千円札を取り出した。
彩香「あの、お代は結構です」
老人「金貰わねえとなにも上達しないだろ。親父さんから何教わってたんだ」
間。
老人「レジ! レジの鍵も取られたのか?」
彩香「それはあります。ありますからちょっと待って」
わたわた。慣れない手つきで、レジに千円札をしまう。
老人「ごちそうさま」
勝手口から帰る老人。
◆
父の友人の卸業者。
卸「これ使って。取引先の農家で貰ったくず野菜。内緒ね」
彩香「ありがとうおじちゃん」
卸「表の張り紙、取れちゃってたけど」
店前の地面に、踏まれてよごれた閉店の張り紙。
彩香「うん、新しく作る」
彩香「その……一人だけ常連さんが来ちゃうんです。お店開けろって毎回うるさくするから、しかたなく通してるけど。結構なおじいさんで……」
卸「ああ、○○の爺さんか」
卸「いやね、孤立してるんだよ。十年前に息子夫婦に先立たれてから独りで暮らしててさ。大悟が前に話してたけど休みの時以外、毎日来てたらしい。彩香ちゃん知らないか。学校行ってたから。そっか、まだ店やってると思ってんだな…」
毎日コーヒーを一杯だけ飲んで帰る常連客。
店主と会話はしないが、いつもの席に居る。
卸「話噛み合わないだろ? ちょっとボケて来てるんだ。でもなあ、爺さん、大悟の事故から一週間くらい経ってから、急に警察署へ怒鳴り込んでさ」
彩香「え?」
卸「いや、すぐに取り押さえられて、病院連れてかれた。自分でも行ったこと忘れてるみたいだし、理由もよくわからないんだ。だけど…どう考えても大悟のことだよな」
卸「その時見てたんだよ、俺。すげえ剣幕だったよ。何もしないで見物してる自分が、恥ずかしくなった。さすがに爺さんみたいな無茶はしないよ。でも俺達だってもっと、大悟のためになんかしてやれたんじゃないかって考えちまうよな」
彩香『ごめんなさい』
卸「……彩香ちゃん? ごめんなこんな話して」
彩香「ううん平気です。野菜ありがとう」
卸「あ、ああ。爺さんがあんまり酷いようなら電話してくれ。なんとかしてやるから」
彩香「大丈夫です。ありがとう」
◆
教会。長椅子の通路側の端に座る。
パウロ「こんにちは」
パウロ「なにか、お話したいことがあるのでは?」
隅の懺悔室が目に入る。
彩香「…大したことじゃないんです」
無言で、中央の通路を挟んで隣の長椅子の端に座る神父。視線の高さを合わせる。
彩香『すみません』
パウロ「あなた自身が語ろうとしないのなら、私はあなた自身を知りえないでしょう。他人の言葉はあなたを表すものではない」
パウロ「悲しみと向き合うのは大変なことですが、あなたの目は真っ直ぐそちらへ向いているように見えます。今あなたには、どのような言葉も入ってこないのではないでしょうか?」
彩香「あー……言葉が入ってこないのだけ、当たってるかも。でも、もともとぼんやりしてるってよく言われるし」
すこし顔がひきつった。
パウロ「いいんですよ。一応私も神父ですので、あえて聖書を開きますが」
形だけの準えだとわかる。
パウロ「ここには、人間は生まれた時から罪を犯し、清いままでは生きてはいけないと書かれています」
パウロ「それでも、誰もが『良く生きよう』と思っていて、悪くなろうとして生きる人は居ないと、私は信じています」
教会の出口へ向かう。
彩香「本当に私の事、知らないんですか?」
パウロ「すみません。つつましやかな生活をしているので」
彩香「そう……また来てもいいですか? 居心地が良いので」
パウロ「もちろん」
それから、日曜日の礼拝に通うようになった。
◆
鍵を返してもらった。
シャッターを開けた。看板はCLOSEのままだけど。
また常連のお爺さん。
老人「調理師免許。親父のだけだろ。あんたのは?」
彩香「え? ……」
老人「まったく。火を通さないものは作っちゃだめ。サラダとか、もちろんパフェもダメ」
メモを何やら書く。
老人「メニューの中であんたでも作れる奴。あとは保健所行ったらわかるから」
彩香「はあ…いやでも、再開するとは」
老人「ごちそうさま」
コーヒーを飲んで、またよれた千円札を置いて出ていく。
別の日、保健所で冊子を貰った。
彩香「やっぱり違う……知識が昔で止まってるんだ。危なかった」
書店で資格の棚を見ている。ふと手が止まる。
お店を再開するわけじゃないのに、なにしてるんだろ。
でも、何もしないよりはいいかな。
余計なことが浮かばないから。
本を手に取る。
◆
卸「彩香ちゃん。これ」
住所と地図が書かれた紙。野菜の入った段ボールの上に。
卸「大悟……お父さんの墓、建てたんだよ。みんなで費用持ち寄って」
困惑した顔。
彩香「まあ……ごめんなさいおじちゃん。私、何もしないで」
卸「いいんだ。俺たちがやりたくてやったんだから」
彩香『私、本当になにもしなくて……』
少し俯く。
卸「まあ、彩香ちゃんは現実主義だもんな。骨が埋まってるだけでここに大悟がいるわけじゃないけど、いつか見に行ってやってくれ」
少し間を取って、微笑む。
彩香「ありがとう」
店の事も僕の事も考えなくていい。彩香は生きたいように生きたらいいんだよ。
そんなことを言ったって、店は忘れてしまえない。
お父さんのことも。
私には他に、なにもないんだから。
慣れて来たレジ打ち。コーヒーを飲み終えたお爺さんに話しかける。
彩香『今日のコーヒー、どうでしたか』
老人「ごちそうさま」
自分のルーチンワークをこなす老人。
私もそうしていよう。考えられるようになるまでは。
◆
少年が、空から落ちて来た。
それは不思議な力で浮き上がったり、着地するはずもなく、意外に軽い音と共にコンクリートへ叩きつけられた。
その子の表情よりも、周りの野次馬の『目』と『声』に我慢が出来ず、駆け寄る。
彩香「あなたは悪くないのよ」
必死で呼びかける。抱き寄せているので少年の顔も良く見えていない。
少年が動かなくなる。
私は立ち上がり歩き出す。野次馬が避けていく。誰の顔も見えてない。
話しかけてくる長身の男。
草薙「知り合いか」
彩香「違います」
少年の血で汚れた服が入ったゴミ袋。
何もないように、シャワーを浴びて、夕食を食べ、蒲団へ。
ルーチンワーク。
ルーチンワーク。
あなたは悪くないのよ
どうして私あんなこと言ったんだろう。
部屋の中を見上げる。箪笥の上に置かれた骨壺。
お父さん、あの時まだ意識があったら何を思っただろう。
幽霊みたいになって上から観ていたら。
悲しんだかな。
めったにないけど、怒ったかな。
それとも……
事故後の弁護士の言葉。
母の遺骨を持ち出された時のこと。
頭の中にできたイメージを、すこし変えてみる。
正。罪を着せられ糾弾される父の姿。親戚たちに見下ろされる父。
逆。罪を着せられる事故の相手。父を受け入れる母の親戚たち。
違う。
どちらも違う。
私が求めていたのは。
◆
記憶。
大学の公衆電話で父と話していた。
窓の外は豪雨。
大悟《朝まで土砂降りらしい。今から迎えに行く》
彩香「いいって友達と帰るから」
大悟《だめだっ。大人しく待ってなさいっ》
彩香「あのねお父さん……」
電話を切られた。
彩香「ちゃんと話聞いてよ。子供じゃないんだから」
友人「彩香行こう。ウチの彼氏車で待ってるから」
彩香「えっと、ちょっと待って」
掛け直そうとして、やめる。
彩香「後で謝ればいいか」
後で謝ればいいか。
後で。
謝ればいいか。
慟哭。
『すみません』
『私が殺したのも同じ』
『ごめんなさい』
『私が父を殺したようなものなのに』
『私、本当になにもしなくて……』
『私がお父さんを』
『今日のコーヒー、どうでしたか』
『許してくれないわよね』
沈黙していた罪。
沈黙を解いても誰にも認められない罪。
ずっと、誰にも聞こえない声で叫んでいた。
「あなたは悪くないの」
あれは、私が父へ言いたかった言葉。
私が誰かから言われたかった言葉。
私が求めていた言葉。
私は、
なんて愚かだったのだろう。
涙が掛け蒲団に落ちる。
天井を向いて、蒲団をかぶって、一呼吸。
慟哭は終わり。
明日からまた、生活が始まるから。
◆
掃除中。
ふと窓ガラスに映った顔。目元が赤い。
化粧をしてないのでそのまま見える。それでもいいかと思う。
いつものお爺さんが入店する。
老人「ブレンド」
老人「表の札、ひっくり返しといたよ」
ドア越しにCLOSEが見える。
彩香「また勝手に、困ります」
玄関へ行く。サインボードを戻そうとした時、人が居たことに気付く。
昨日、血まみれの私に話しかけて来た男の人。
間。
草薙「……店、やっぱり開いてないのか」
彩香「えっと」
老人「開いてるよ!」
店の中から声。
彩香「もう、だから……」
彼の方を見て迷い、ぎこちない微笑みを交わす。
再開した店。裏口ではなく客としてきた卸業者のおじちゃん。
卸「彼氏?」
彩香「違うって……その、新しい常連さん」
卸「顔色良くなったね」
彩香「そう?」
卸「ああ、もう大丈夫そうだ」
草薙さんが気にするように遠くから伺っている。
そちらを向くと、目が遭いそうになって、逸らす。
あ、ちょっとかわいい。
例の老人の定位置をふと見やる。
彩香「そういえば、今日は来なかった」
◆
聞いた住所へ向かう。古い平屋で、郵便受けに溜まった新聞。
お節介好きそうな中年女性がゴミのネットを直している。
彩香「あ、あの。ここにおじいさん住んでますよね」
女性「ああ、○○さん? そういえば最近見てないのよね。ちょっと待って、あの人いきなり入ると怒鳴り散らすから」
彩香「いえ、いいです。大丈夫です」
玄関を叩こうとする女性を制止する。
彩香「よければこれ、お店再開したので」
喫茶店のチラシ。
女性「あらまあ、ありがとうね」
◆
隣で寝ている恋人の顔を見る。
また寝ながら泣いてる。
男の人って皆こうなのかしら。
それとも私も自分が気づかないうちに、泣いていたりするのかな。
この人は悪い人なのかしら。
だけど悪い人がこんな風に泣かないわよね。
了