幻影

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#5



◇主人不在のあおぞら



 CLOSEの札が掛ったドアガラスの向こうに、暗い店内が見える。
 主人がいない店を見ていると、もの悲しさと同時に不安がこみ上げてくる。病院からここへ帰るまでに、いつの間にか、取り返しのつかない事態になっているのではないのかと。この三日間緊張が解けたことはない。
 この札がいつまでも表に返されないまま廃墟になった光景が頭に浮かんだ。悪い想像を頭から振り払い、洗濯物の入った鞄を抱え直す。

 戸締りを確認した後、俺は念のため『旋視』した。

 世界の色が変わっていく。物の輪郭がゆがんだかと思うと光の帯が道を占める。人のシルエットを引き延ばした帯がいくつも重なっている。ラジオの周波数を合わせるような感覚で視点を調節していく。
 光の帯が消える。建物の形も比較的元のままだが、すべてが灰色で淡い白の線に縁どられている。正面の道には無数の色の足跡が浮かんでいる。これも過去にここを通った人々を表しているのだろう。俺の視点では色にそれぞれの意味がある。他の想師はまた違うのだろうか。視点を調節し、生活の残像の中から最近通ったものだけを選出する。五人の足跡が店に向かっていた。
 淡いピンクのハイヒールと青い靴跡が並んでいて、離れていったように続いている。幸福と誠実の色。
 虚飾を表す黄色の革靴が、落ち着きなく歩き回った跡もある。セールスだろう。赤いスニーカーが大股で残っている。怒りを表すが、あまり悪い印象はない。大きさは子供の足だ。
 そして、濃い紫。一瞬、幽螺のものかと思ったが、辿っていくと自分の足元に続いていた。

 思わず苦笑し、自分が『現実』と呼ぶ世界へ視点を戻す。世界の色は戻り、足跡は消えていく。
 少し視界がぼやけ目頭を揉んでいると、聞きなれたエンジン音が近付いて来ているのに気付いた。

「草薙さーん」

 一組の男女が乗ったバイクがこちらへ向かって来ていた。
 声の主は、後部座席のこちらに手を振っている少女、といっても、もう二十五になるはずだが。カワサキのシルバーを乗りこなすライダージャケットの男は良く知っている。

 谷川真由と倉沢永次。
 バイクは店の前で停車する。

 後部座席に跨った彼女がヘルメットを脱ぐと、纏められた髪が翼のように拡がった。
 黒髪は細かなウェーブを描き、その一房一房の隙間から、淡い色の花が覗き、咲き乱れている。俺の使う視点では彼女の性質は植物の形で表れることが多い。

「こんにちは」
「どうも、兄貴」

 真由は軽く首を傾けて会釈し、永次はフルフェイスのバイザーだけを上げて、彼女のあいさつにぶっきらぼうに続ける。大人びはじめた真由と比べて言葉遣いが粗暴な頃に逆戻りしているような気がするが、言い咎めるつもりはない。

「卒業おめでとう」
「えへへ、ありがとうございます」

 真由は照れくさそうに笑い、一礼する。彼女の髪から花弁が飛び、視界の端に消えていった。

「まだまだ見習いですけど」

 彼女には「専業主婦と想師、どっちの道を進むべきか」という妙な相談を持ちかけられたこともあったが、今は看護師になったという。研修先は彩香のいる病院だ。その仕事を選び人一倍努力してきたのも、これまで彼氏が度々死にかけていたのを見ていたからか……どうかは、わからないが。
 俺は運転席に座る永次を見た。ヘルメットの下には、眉間から右頬へ走る古傷が覗いている。

「日取りはまだ決まってないか」
「まあ、はい。話し合ってはいるんですが……

 頭を掻く仕草をして永次はむにゃむにゃと語尾を濁す。真由はそんな彼氏の肩を両手で掴んだ。

「だってね、聞いてくださいよ草薙さん。エイ君、地味婚にしようっていうんですよっ」

 彼女に肩を揺さぶられながら、永次は必死に車体を支えている。地味婚とは、予算を抑えた式という意味だったか。若者言葉はどうも使い慣れない。五歳くらいしか離れていないが。

「いやいや地味じゃなくて、つつましく上品にというかだな」
「ほら。エイ君、草薙さん達の式に影響されてるんですよ」
「そ、そんなことねえよ」

 どうも二人の間で意見に相違があるらしい。弱弱しく否定したが、後に続く言葉はない。その様子と沈黙に耐えきれず、俺は噴き出してしまった。
 それが真由に移り、連鎖した笑い声が次第に大きくなっていった。永次も困ったように笑う。なにげないことだが、心を埋めていた不安が少し和らいだ気がした。

 真由はヘルメットに髪を納め直した。

「式場候補を回ってるんです。さっきも教会を見て来たところで」
「そうか、だったら急がないとな」
「俺は兄貴と同じ所が良いんですけどね」

 永次が声をひそめて俺に言う。それは後ろの彼女にも当然聞こえている。彼氏を半眼で睨み、俺にまで同じ視線を送ってくる。師匠離れも急いだ方がいいだろう。

「じゃ、兄貴。また今度」
「またねー」

 エンジンを鳴らしてバイクが走り去っていく。
 永次の背面はロボットのように、配線と基盤の入り組んだ銀色の内部構造が、剥き出しになっていた。
 しがみついた真由から蔦が伸び、その内部に花を咲かせている。淡いピンク色。

 旋視していない時も、視点が入り混じるようになってから、どのくらいが経つだろう。

 彩香のことについて、永次も、真由も、俺も、語ろうとはしなかった。
 臨月を越えてから三日経つ。たったその三日が、あまりにも長く感じられた。


#2

◇自室

 振動音に気付き、たった今脱いだスーツの中を探った。たしか右ポケットに入れていたはずだが。あった。携帯電話の画面を点ける。
 仕事以外にあまり使う機会はなかったが、ここ数日は寝る時以外肌身離さず持っている。病院からの連絡に備えて。

 メールボックスに着信があった。差出人は『近江』とだけ。

『別件が入ったので、午後四時からお願いします。申し訳ありません』

 内容は簡潔だった。俺から今日話したいことがあるとだけ伝えていたので、その返信だ。時計は午後二時を回ったところだった。洗濯物を干し終えて、時間を持て余した俺は何をする気にもなれず、そのまま横になっていた。
 転視室に移る必要も、ないのでは。
 さまざまな事が面倒になってきている、不味い兆候だ。

 なんとか身体を起こしてゆるゆると支度を整える。
 顔を洗う。洗面所の鏡に映るのは目つきが鋭く、精悍な顔をした男だった。見慣れた自分自身の姿。浅黒い肌で、唇を上げると牙のように鋭い犬歯が覗く。以前より伸びてはいない。
 額の両側に、丸い硬い部分がある。『サトリ鬼の視点』の影響で生えた角の跡。ほとんど目立たなくなっていたが、触れるたびに血塗られた記憶が蘇る。

 俺の本質は、残酷な殺人鬼だ。



◇アジト

 転視はトランス状態によって既成概念の枠を飛び出し、本質から異なる世界像を創り出すことができる。その代わり肉体は無防備になる。予測外の刺客に襲撃されるかも知れないし、突然地震でつぶされるとも、何が起こるかわからない。
 そのため想師は肉体を保護する場所が必要だ。俺の場合はこのアジトだった。地下の転視室へ続く扉は内側から開けることしかできないため、『位置逆転の視点』を使ってレバーをこちら側へ持ってくる。

 二十畳ほどの部屋を四隅のライトが照らす。部屋の隅の食料と水、酸素ボンベを念のため確認する。賞味期限も問題なく変わった所はない。鋼鉄の扉をロックする。警報装置を作動させ、準備を整えた。
 三つある寝椅子の内、俺用のものに体を横たえる。
 精神を集中させる。息を吐くごとに意識が闇に沈んでいく。
 背中を押される感覚があった。ガーゴイルの羽が窮屈そうに広がろうとしている。あわてて視点を調節する。
 昔、ある同業者に「柔軟性がある」と言われた気がするが、制御できなければ無意味だ。深く息を吸って、もう一度心を落ち着かせる。
 『現実』と呼ぶ世界から離れた、想念世界を捉える為に。





 こうしている間に、取り返しのつかない状況になってしまっているのでは。
 そんな不安を頭を振って追い出す。

 暗い空に覆われた、どこまでも続く白い平野が広がっている。地上を蠢くのは死者と、それらと交信を試みる生きている者の魂だ。
 『デッドマンズ・ネット』と呼んでいるこの世界の景色は、魂と交信するために俺の意識が作ったとも考えられる。やろうと思えば"生まれる前の存在"とも話せるのだろうか。想像はできないし、必要となる案件を受けたこともない。

 転生。
 前世の記憶を持ちこしているという人もたまに居るらしいが、一方で幼少期に見た本や逸話を自分の体験として誤認しているだけ、とも言われている。
 どちらも可能性としてあると考えるのが想師だ。魂がリサイクルされる真実を選ぶとしても、それらは何もかも忘れてまっさらな状態で生まれるほうが俺はいい。
 わざわざ前世の業を掘り起こす必要があるだろうか。
 俺が生まれ変わった立場だとしたら。そう思うかもしれない。

 骨を踏み割る俺の足は、黒い石で造られたガーゴイルのものだった。

◇想念世界・近江の応接室へ

 ドアを開けると、白い煙が充満していた。
 部屋の一点から細く煙が立ち上っており、天井に溜まる大群へと参加していく。冥界にも煙草はあるのか。師匠は酒を持ち込んだことがあったが。
 熱気を持った粒子は目と鼻をチリチリと刺激し、現実世界のそれよりも不快に感じた。

 煙の発生源を認識すると、そうも言っていられなくなったが。

「こんにちは、草薙さん」

 ソファに座っているのは二人の男だった。

 部屋の奥側、声をかけたのは見慣れたこの部屋の主である近江だ。
 いつも通り背筋を正した姿勢で座っていて、両手を膝に置いている。もちろん喫煙者は彼でない。

 手前のソファの男。後頭部をこちらに向けて、煙草をふかしているのは九鬼凍刃だった。
 彼がコーヒー以外の嗜好品を手にしているのは初めて見る。

「どうした。豆鉄砲でも食らったような顔をして」

 こちらを振り向きもせず九鬼が言った。嘲笑うような調子だが、低く良く通る声だ。最初に出会った頃の丁寧な敬語でもなく、ざらついた奇妙な声質でもなかった。
 奴は俺と同じ師匠を持つ兄弟子であり、かつて死闘を繰り広げた間柄でもある。

「珍しいと思っただけだ」

 机の上には数枚の資料のコピーと封筒、ガラスの灰皿が置かれている。既に数本、鎮火された吸殻が押し潰されている。俺は開いているソファに腰を下した。

 九鬼は普通の人間として見えていた。
 黒い礼服と革手袋はそのままだが、最初に会った頃よりも使い込まれている。トレードマークの山高帽は今は膝に置かれていた。
 肌は生身で、のっぺりとした人工皮膚ではないし、黒々とした頭髪はパーマがかけられ短く整えられている。勇猛さと理知性を兼ね備えた風貌だ。絵物語に描かれた鬼を思わせる。おおよそ四百年前には想師の力を振るって戦国の世で活躍していたと聞いているが、この姿は当時の人間にはどう見えていただろうか。

 俺自身の姿も、グレーのスーツを着た現実世界に近い姿になっていた。

「ご依頼の件で打ち合わせをしておりました。ちょうど今終わった所です。九鬼さんは使い所さえ間違えなければ有能な方ですので」

「実績は十分あるからな」

 近江はいつもの涼しげな顔で目の前の男を評した。含みのある言い回しに、九鬼が笑いながら答える。

 ここ数カ月、近江は九鬼にも依頼の紹介をしている。そのことは知っていた。
 まだ幽霊ではなかった頃の近江を残忍に殺した張本人が、まさに九鬼その人なのだが。かつて自分を殺した相手であっても冷徹に、というより、そんなことは気にしていないかのように談笑している。
 俺は呆れながらも、妙な居心地の悪さを感じた。

「どうだ、『鬼の視点』は使いこなせておるか」

 九鬼がこちらを向いた。息に乗り、煙がこちらまで吹き流される。反射的に振り払い、結局話題にせざるを得なくなった。

「何を吸ってる」

「おお、すまん」

 軽く謝罪を口にし、九鬼は灰皿に火種を押し付けた。

 煙草を吸ったことはないが、あおぞらに来る客には飲食後の喫煙を楽しみにしている常連が何人かいる。今まで副流煙の匂いなど似たり寄ったりだと思っていたが、ずっと店を手伝っているうちに、今日はこの客が座っている等と気が付く程度には覚えた。
 この部屋に充満する煙は今まで嗅いだことがない。革手袋の指に挟まれた白い紙包み。マッチと重ねて置かれているのは古い木製のケースだった。
 さっきまでの不快感は薄れ、今度は妙に気分が落ち着いてくる。

「昔はこんなもの、楽しむ余裕がなかった」

「おや、色々と嗜んでいたと聞いていますが」

 資料を封筒にしまっていた近江が質問する。相手の下調べは十分ということらしい。

「あの頃は神経まで変質しておったのでな。存在する物は片端から試したが、どれも無駄だった」

 二人が話しているのはただの嗜好品のことではないだろう。俺は不安になり煙を払う。空気の流れを操作できればいいのだが。そういえば天承師匠は天候を操るのが得意だったな。

 師匠に視点を固定された影響で、当時の九鬼の姿は化け物そのものだった。人間の悪意に染まり、全てを憎んでいた。
 苦痛から逃避するためなら、どんな物質にも縋りつこうと思うのかもしれない。

「お前にはまだ必要ない」

 俺の視線に気付き九鬼が言った。

 ふと、違和感の正体に気付いた。
 あのドロドロとした世界への憎悪が、奴を覆っていた強烈なシンボルが今はないのだ。

 九鬼は俺にとって、未だに脅威の象徴であり、あの頃の緊張と悪意のやり取りがまだ記憶に残っている。奴が死んだ後、一度『九鬼らしき存在』に助けられたことはあるのだが、その姿と、それより前の姿と、今目の前に居る姿。まだそれらが、俺の中では、同一人物の奴として一致していない。

 今の奴は、どうしてそうなったのかは忘れたが、生身の肉体で普通に仕事をしている。
 本当に今、目の前にいる奴が。戦い、助けられた相手が、すべて同じ「九鬼凍刃」なのだろうか。
 よく知っているようで知らない、遠い存在だ。だが、これも奴の姿の一つなのだろう。

「草薙さん。今日は何かご相談があるのではないですか」

 近江が訊ねた。
 そうだった。今日はそのために来た。まだ少し迷っていたことだが、九鬼を見てかえって考えが固まったようだ。
 俺は近江に向き直り、その言葉を口に出した。

「実は、引退を考えていて」

 一瞬、静寂が訪れる。
 静寂を破ったのは九鬼の声だった。

「ギャハーッ、ハッハッハッ!」

 爆発音のような笑い声。大きく開いた口は、裂け、鼻先がせり出し、爬虫類の鱗が顔を覆う。ティラノサウルスの顔が笑っている。甲高い奇妙な叫びに空気が揺れる。事務所の壁がぼやけ始めた。煙と混ざりあって蒸散する。その向こうに緑色の葉と空、原色のジャングルが見えた気がした。俺は慌てて視点を調節する。
 やはり混濁している。転視中は特に起こりやすい。
 ゲートという切り替え装置が消えたわけではないが、自分の意志に反して視点がずれていく。この『ピントずれ』に合わせて、世界の法則が絶えず変化しているのだとしたら危険だ。たとえば、物質界最強の想師が目の前に居る、今の状況はまずい。

 近江が面食らった顔をしている。この男がそんな反応をするのも珍しい。視点干渉のせいか。
 いや、九鬼の所為ではない。
 彼の見開かれた目は、俺を見たままだった。

「まず、草薙さんからのご要望で、しばらく休暇期間を設けるお約束をしていましたね」

 近江の声は、いまだ続いていた奇妙な笑い声に被さる。元の微笑した表情に戻り声も落ち着いているが、いつも通りではない気がする。
 ようやくこらえた九鬼が彼の言葉を引き継いだ。

「お前ともあろうものが、一体全体どうした」

 その顔は元の人間のものに戻りはじめていた。
 俺は自分の身に今起こっている現象について、簡潔に話した。

……不安になる気持ちもわかりますが、早急に考えることもないのでは」

 近江はそう言った。

「倉沢さんは治療関係でも十分働けるようになりました。手を汚すような依頼は九鬼さんもおられることですし。しかし、草薙さんが適任であろう依頼というのも確かにあって」

「依頼が来ても、俺は受けない」

 言葉を遮られ、近江はそれ以上続けるのをやめた。

「そう、考えているだけさ。回復したらその時は、また、よろしく頼む」

「なるほど」

 俺は普通の人間で、一生暮らせるだけの貯金も蓄えてある。
 その状態で想師をやめることになっても、俺自身は何も問題ないと思っている。

 彼が心配しているのは、世界が滅亡するような事件が起こった時に、俺が使えないことだろう。世界的危機と言える状況をこれまで3度も経験してきた、どころか、一度滅ぼしてしまったことさえある。
 しかし、もう俺が生きている内にそんな事態にならないことは『わかってしまって』いるし、俺以外にも有能な能力者はいる。

「目の病などぬるま湯に浸かっていた所為だろう。たかが三十路でもう衰えか。どうだ。今回の仕事、私の代わりにやってみるか?」

 黙って聞いていた九鬼が口をはさんだ。書類で厚みが増した封筒で肩を小突いてくる。
 今日はやけに絡んでくるな。あおぞらで見かけても話しかけては来ないのに。

「お前はまだまだ殺せるだろう」

 ニヤニヤと口をゆがめた顔に、恐竜の冷酷で獰猛な笑顔が重なって見える。視点の影響か俺の心理がそう見せているのかはわからないが。やはりこいつは九鬼凍刃だ。

「俺はもうあの時以来……、休みを貰う前から、殺しの依頼自体を受けていない。近江にも頼んで、避けることにしている」

 バチカンの刺客、と言いかけて、その案件自体がなかったことなっていたと気が付き、飲み込んだ。世界を改変した誤差は俺ともう一人だけが知っている。

 確かに俺は、九鬼と同じ殺人者だ。だが同じ轍は踏まない。お前のように殺すことしかできない訳じゃない。
 奴がまだ『サトリ鬼の視点』に固定されているなら、この本音も聞こえていたかもしれないが。

「くく、く、丸くなりおって」

 九鬼はどこか寂しげに呟くだけだった。

「草薙さんの状況はわかりました。なにか困ることがあったらご連絡ください。くれぐれもご自愛なさってくださいね」

 空気が悪くなった場を近江が強引に締める。
 九鬼は真っ先に煙草の箱を掴んで席を立った。書類の封筒を片手に下げたまま、俺が入ってきたものとは別の、灰色の扉を開けて奴は事務所を去っていった。
 俺は自分が入ってきた扉へ向かう。内側から見た扉はこげ茶色の木製だった。これをくぐれば転視から目覚めるはずだ。

「草薙さん」

 部屋を出る間際、近江に呼び止められた。

「仕事のパートナーとして、草薙さん以上の方はいないと私は思っています。今は彩香さんのためにも、なるべくそばにいてあげてください」

 振り返ると近江はソファに座ったままこちらを見送っていた。その笑顔は優しげに笑っていたが、無理をしているようにも見えた。
 残念そうにしてくれるな。俺だってつらいんだ。

 ……つらい。なにが、つらいのだろうか。
 仕事が出来なくなることか。あるいは、自分の精神が完全に狂気へ陥りかけているからか。

「たまに顔くらいは出すよ」

 俺は冥界の事務所の扉を閉めた。



#3


◇怪しい店の奥から
 気軽に人生相談するには心配な相手だが、不可解な出来事はこいつに聴いたほうが良い。

「視点の混濁ですか」

 興味なさげな声は中性的だった。元の性別もわかってしまったが、それで関係が変わったということはない。
 幽螺屍奇。
 身体を乗り換えつづけ五百年生き続けている魔術師。敵対していた時は体を乗っ取られたこともある。だが奴が彩香に助けられてから、なんだかんだと共同戦線を張る間柄になっていた。奇妙な信頼関係は今も続いている。

 幽螺はかつての『魔法の店』を再開した。四方の壁にかかった蝋燭で薄暗い部屋は照らされていた。周囲には商品兼商売道具が所狭しと並び、その中には丸い球の代わりに複数の輪を組み合わせた地球儀のような、見覚えのあるものもあった。床には文様が編み込まれた薄い絨毯だけが敷かれ、俺もその上に胡坐をかいている。

 今の幽螺は人間の姿だが、頭から全身を黒い布で覆っている。そのために体勢がはっきりとはわからない。布で覆われていないのは前腕から先だけで、そわそわと細い指を動かしている。

「たしかゼノファストは覚醒中も常時視点を変えておりましたが、今の草薙さんは自分で制御できない状態にあるのですね」

「ああ。とはいっても、意識していれば固定はできる」

 かつて戦った外国人想師の名を幽螺は出した。あの忙しなく旋視しつづける奴の精神状態を心配したものだが、俺も他人事ではなくなってしまったのか。

「そのうちに使える視点も減っていくかも知れない」

「限界を定めるなと、あなたの師匠も仰っていたと思いますが」

「年齢を重ねれば自然と狭まっていくそうだ」

「まだ三十路も迎えないうちに衰えですか。私は現役ですけれどね」

 自分のことを『わたくし』と呼び、幽螺は皮肉で応えた。九鬼みたいなことを言う。そういえば、師匠もどのくらいの年齢からとは言っていなかったな。

 幽螺の後ろから人形がたどたどしく歩き出てくる。
 フェルト製で、茶色い糸で口が刺繍されている。ボタンの目がくるくると動いていた。目鼻の位置がずれた不細工な人形は、天承師匠に作られた奴の仮の身体だ。
 奴を仕事に連れていく時はこれを手に携えていた。傍から見れば異様な光景だろう。

 人形は俺の前に座り腕を組む。こういうことをされると、どちらが奴の本体かわからなくなってくる。

「しかし草薙さんの調子が悪いとなると、あおぞらの警備にもすこし不安が出ますか」

 どうやら俺は防犯装置扱いらしい。
 人間体の幽螺の細い指が袖に隠れ、小さな紙片を取り出した。人形がそれを受け取り、俺の膝まで歩いてくる。

「お守りをつけておきましょう」

 赤い線でシジルが書かれたその紙片が燃え上がり、その煙が俺の顔に当たった。思わず目を閉じる。煙は鼻腔と皮膚に染み込み、すぐに不快感は消えていった。
 以前、意識リンクのために使い魔を頭に埋め込まれた時よりは幾分マイルドだ。炎に接していたはずだが、人形に焦げ跡はない。

「車での移動も控えているようですし、旋視したままの生活に慣れれば大丈夫ですよ。昔のように一般人を殺しまわったりもしないでしょうし」

「嫌なことを思い出させるな」

 たしかに視点が揺らいでいる今、一番心配なことはそれなのだ。人と無機物、敵味方の区別もつかない状態になるかも知れない。俺が視点を使って最初に行ったのは殺人だった。

 あの時の俺がどんな状態だったのか、はっきりとは思い出せない。ただ終わらない宿題に頭を抱えていたのは覚えている。俺が両親を殺してしまった原因は、受験勉強のストレスとも言えるかもしれない。未熟だったとはいえ、母と父が人形に見えたことも、それに対する行動も、当時の俺が深層意識の中で望んでいたのだろうか。
 冥界から来た二人は許してくれた。だがそれで全てが帳消しになったわけではない。
 

「ところで……

 幽螺の声が響く。
 部屋の四方に置かれた蝋燭。炎が揺れ一瞬部屋が暗くなった。一瞬だが、目の調節が追いつかず、視界が滲んだ。
 黒い布を被った人影は細い指を動かし続けている。蝋燭が消えたわけではないのに、視界は暗くなっていく。

 閉じた瞼の裏を、青白く光る文様が電流のように拡がる。
 文様は数式のようにも見え、文字列として読めそうな気がした。日本語でもアルファベットでもない。だが、その異界の言語を理解していた自分を知っている。
 しかしどうしても思い出せない。忘れてしまったのだろう。光は徐々に消えていった。

 瞼を開くと部屋の明るさは戻っていた。幽螺の指の動きは止まっている。

「大丈夫ですか。草薙さん」

「ああ」

 俺は、それだけ答えた。




「ところで、彩香さんのことなのですが」








「私にできることは限られています。『自然のままに』が、彼女の思し召しゆえ」

 野良猫が幽螺と同じ声でそう言った。

 視点が不安定だ。足取りが慎重になる。コンクリートが一瞬ぬかるみのようになり、足が沈みかける。慌てて視点を調整する。視界の全てがセピア色の樹木で構成されたが道は歩ける。黒猫は細い線で構成された姿に変容し、トコトコと通り過ぎていった。

 十分も歩くと視界は変わり、樹木は紫色に変化し腐り落ちていく。ここまで来ればあおぞらまではもうまっすぐ直進すればいい。真っ直ぐ歩けるのなら。
 足場が崩れていくたびに視点を調整する。現実に影響を残さなければいいのだが。
 視点を調整し続け、灰色の殺風景な喫茶店の中へどうにか帰り着いた。幾度か視点を変えると見慣れたあおぞらの内装になる。まるで、壊れたテレビだ。
 頭痛がする。これから外を出歩くたびにこの調子だと思うとうんざりした。だが、明日も見舞いに行かなければ。

 頭が重い。鈍い痛みがする。階段をどうにか上り、寝室に入る。
 ジャケットを脱いで横になり、明日の準備もしないまま眠りに落ちた。



◇寝室


「元気ねえじゃねえか」

 目を開けると、もう夜だった。
 寝転がったまま窓に顔を向けると、サボテンの鉢が並んでいた。月明かりで棘が白く光って見える。
 視点を調節すると、漫画のような顔を眠たげにしかめてこちらをうかがっていた。

「まあな」

「すぐ寝ちまっただろお前。喉が渇いてしかたねえ」

 金晃丸の金太郎の声は、彼には珍しく低い調子だった。休業に合わせて、今は残った子株たちごと寝室に移動している。
 俺は身体を起こした。冷蔵庫から缶ビールを出して鉢にかけてやる。最近は自分では飲む気が起きない。こいつらのために買ってやっているようなものだ。
 だが、反応が薄い。いつもならこいつは親父臭く喜ぶものだが。

「どうした。お前こそ」

「俺だってセンチメンタルになることもあるんだよ」

「病院に行っていたのは金次郎だったか」

 まさか枯れてないだろうな。
 充電器に刺さっていた携帯を開く。着信は来ていなかった。

「元気だよ。元気。あいつばかり元気でもしかたねえけど」

……

「こういう時、俺らは無力だよな。ペヨーテの爺さんならまだしも」

 いつか金晃丸が連れて来たペヨーテという大サボテン。彼自身が幻覚を使うだけでなく、針から出る成分自体が幻覚を見せる作用があるという。苦痛も幾分か和らぐのだろうか。試すつもりは無いが。
 九鬼の姿も思い出す。燻らせていたあの紙巻。お前にはまだ必要ない。奴はそう言っていた。
 歳を重ねるごとに視点の幅は狭くなると師匠は言っていた。この仕事を続けようと思えば必然的に関わっていくものもある。幻術師とも戦い、魔術師には今日会ってきた。酒も公然と認められているだけで、現実世界から意識を逸脱させやすくする薬の一種と言えなくもない。
 いずれ人間の肉体と精神では持たなくなるだろう。朽ちる体と共にその一生を終えるか、あるいは人間を捨て、完全な化け物となるか。そうなることを恐れて俺は引退を決めたのだ。

 彩香はどうしているだろう。
 今朝も彼女はよく話した。俺がたどたどしく剥いた不細工なリンゴをおいしそうに口にして、気丈に振舞っていた。顔にはすこし陰りが落ちている気がした。
 子どもが無事生まれてくるかどうか、五分五分の確立だという。「大丈夫」と何度も彼女は言った。

 俺は自分の子が恐かった。

 今日、彼女に話した。彩香はただ「先のことはわからないから」と言って、微笑んだけだった。

 彩香の胎内に命が宿ったと聞いた時、驚きはした。だが仕事中に倒れ、隠れて嘔吐を繰り返す彼女の方が心配だった。
 望んでいないわけではない。彼女が欲しているのなら俺は受け入れたい。だが想像すればするほど悪い想像ばかりが育っていく。
 苦しみながら喜ぶ彼女と、周囲から送られる祝福。彼女たちと俺の意識のギャップを感じ始めた頃に、視点が入り混じるようになっていた。

 一番恐れているのは、彩香を失い、子どもだけが生き延びた時だ。自分に奇跡的に父性が芽生え育てられるならいいが、彼、あるいは彼女を、罪のない子を、恨んでしまわないだろうか。彼女を失った原因として愛してやることができないのではないか。
 血の繋がりなど薄い。血の繋がった相手を、俺は殺してしまったのだから。

「しけたツラすんなよ。どうせお前、自分の子どもが怖いとか思ってんだろ」

 こいつは妙に勘がいい。金晃丸の漫画のような口が大きく開き捲し立てる。

「俺だってよぉ、自分の体に金次郎がぽこっとできた時は、不安だったさ。不安だったような気もする。うん、たぶんそうだ」

「本当か?」

 そんな様子はなかった気がする。俺が子株を指摘しても気にするなと言ってビールをねだって来たのを覚えている。

「でもな、いざ出来てみるとかわいいもんだぜ。俺によく似ていてよ」

「お前が自分大好きだからだろ」

「おうっ、そうだな」

 サボテンは快活にケタケタと笑う。彼の子どもたちは眠ったまま何も言わない。

「俺は自分が嫌いだからな」

 笑い声が止まり、金太郎はそれ以上何も言わなかった。漫画のような顔は目を閉じて口をへの字に曲げた。
 俺は視点を戻し、空になったビール缶を捨てに台所へ戻った。



 眠くはない。眠れる気もしないが、どうせそう思っている間に眠りについてしまう。寝ている間、少なくとも意識からは、彩香を心配する気持ちが消えてしまうのだろう。病院からの連絡で携帯が鳴らないことを祈りながら、俺は一人ベッドに入る。

 自分の薄情さが嫌になる。
 彼女は、それも許してくれるのだろうか。


◇あの場所


 睡眠中に来れるような場所では、ないはずだが。

 俺は銀色の空間に立っていた。空間全体が、空気そのものが光っているようだ。足を付ける地面はあるが、壁や天井はなくどこまでも広がっている。俺の姿はシャツとスラックスを着た人間の姿だった。黒いガーゴイルではない。
 顔を上げると遥か上空を鷹の姿をしたナビゲーターが滑空していた。円を描き旋廻している。
 ここは想念世界だ。
 空間にはいくつも椅子が方向も場所もバラバラに置かれている。その上に腰かけているはずの者たちは今は見えない。
 この空気には覚えがある、だが、少しおかしい。振り返ると黒い人影がいた。

「やあ」

 声が響いた。首筋をひたりと撫でる冷えた指の様な。空間が人間のシルエットの形に、完全な黒の穴をあけている。突然のことに体が硬直するが、呼吸を整え、視線を外さないようにして観察を続ける。
 空間の穴が変化していく。銀色の部分が浮かび出て、黒い色に混ざることなく流動していく。穴が裏返り立体的になる。顔に当たる部分に、目鼻の形が浮き上がっていた。
 薄く笑っているような細面の顔。不吉なまでに青白い肌。
 人影は、銀色の髪の、黒いシャツとズボンを着た男の姿になった。現実世界ではその髪も黒いままのはずだ。

「とりあえず、おめでとう」

 死神から祝辞を貰ってもあまりうれしくない。

#4



「ありがとう、と言うべきか。お前の口から聴けるとは思っていなかった」

「これくらいは言えるよ」

 百合咲解璃。日本を震撼させた連続猟奇殺人鬼。間接的にだが、奴には世界の再生を手助けされた。奴は『死』の存在そのものだと幽螺は言っていた。独自の意志や欲望を感じられない、ある種のロボットのようだとも。
 この場に居ることが証拠とでもいえるだろうか。全知全能の神の座が点在するこの部屋を俺は改めて見渡した。
 ここへどのようなルートで辿り付いたかはもう忘れてしまった。

「答えを求めに来たんだね」

 百合咲が数歩横にずれると後ろに隠れていた者が見えた。椅子に座ったスーツ姿の西洋人。常人より大きな目は焦点が合わず虚空を見つめている。
 かつて知識欲の権化とまで言われたゲール・ブライトが、その根源を失って廃人と化している。
 奴がここに到達するために散々利用されたため、顔を見てもあまりいい気はしない。なにもしない全能神。
 俺は気を取り直し、百合咲に質問する。

「お前は何か知ってるのか」

「話した方がいいのかな」

 百合咲の冷えた視線はこちらを向いていた。俺の後ろに焦点が合っているようだ。

「君たちの信頼関係にひびが入らないか、心配なんだけど」

 特に心配している様子もなく言う。

「まあ、正確な写本がほんの一辺でもあれば、魔術師として一流だろうね」

 魔術師と奴は言った。ゲールとの信頼関係はとうに崩れているし、今の状態では望むべくもない。
 ならば相手は決まっている。

「ここで得た知識が残っている。彼自身では引き出せないけど」

「その通りです。外部から魔術でアクセスすれば見られる状態にしました。約束ゆえ表層に流れ込まないようパーテーションを厳重にしたつもりでしたが」

「気休めだね」

「やはり、私のせいでしたか」

 死の権化と会話しながら俺の背後から歩み出たのは、頭から黒い布を被った幽螺屍奇だった。

「というわけで草薙さん、私が真犯人です」

 幽螺は悪びれた様子もなく、犯行を認めた。

「怒る気も起きない」

 俺は深いため息を吐いた。







「記憶はネットワークだから、関連するパーテーションの向こう側に記憶がどんどん取り込まれている」

「たしか視点の調整が上手くいかないと言っておられましたね。ふむ、技術に関する知識すらロックされてしまったということですか」

「だろうね。自分自身というより君の弟子のためかな」

「お陰様で霊格が上がった彼女はどんどん力をつけて、今まさに魔術師として成長期にあります。彼女にうってつけの教本があるのですから、それを与えないでおくなど可哀想で可哀想で……

「俺は可哀想じゃないのか」

 思わず口を挟むが、幽螺と百合咲はこちらを振り向きもせず談義を続行する。もちろん椅子は使わない。座れば目の前のカバリストのように、世界の全てを掌握するのと引き換えにあらゆる欲求をも奪われてしまう。

「僕も弟子は取ったけど、そういうのよくわからなかったなあ」

 幽螺はおもむろに右手を自身の胸に当てて深く息を吸った。

「愛が足りないのですよ」

「まあ、いいや」

 謳い上げた言葉はあっさりと受け流されてしまったが幽螺は気にする様子はない。布にあいた穴から覗く光る眼は、陶酔するように細められていた。
 百合咲の弟子。見捨てられた記憶が、今の彼女に残っているかは定かではないが。
 観念して俺は挙手した。

「俺もいいか」

「どうぞ」

 応じたのは百合咲だった。

「ここで得た全能神の知識が完全に消えてないと言ったな。だが、俺は思い出せない。忘れているということは、消えたわけじゃないのか」

「忘れたと思っても覚えているものだよ。覚えていたという感覚自体は忘れていないだろう。ふとした時に思い起こされることはないかな」

 確かに、奴の言う通り『記憶していたという記憶』はある。アルツハイマーの患者は自分が何かを忘れたことすらわからなくなるらしい。だが説明が付かないことも存在する。

「その知識が影響しているとして、なぜ目が悪くなるんだ」

「僕はわからない」

「古くより神の所有物を人間界に持ち出せば大きな代償が与えられるとされています」

 幽螺が陶酔から戻ってきた。

「全能の知識も持っていくなら相応の代償が必要になりえる。ということは『己の持つ最も価値ある物を差し出せ』ということでしょうか」

「彼女でも命でもなく目なわけだ」

「草薙さんは想師として視覚に多くを頼ってきましたから。知識の代償には値するでしょう」

「なるほど。でも、失ってからが全盛期じゃないかな?」

「どういうことだ?」

 百合咲の言葉に疑問を持った。
 かつて幻術使いに視界を奪われた際、俺はなすすべがなかった。対抗するために眼を潰そうとしたがそれも阻止された。あの時は幻術による目隠しだったが、眼を失った想師に何ができるのだろうか。

「ううん、そうだな」

 奴は斜めに俯き、椅子に座っている全能神の頭に手をかざす。ゲールは何の反応も見せない。
 百合咲は少し考えるそぶりをしてから答えた。

「目の知覚から解き放たれたら、君はその分を想像力で補うことになるよね」

 幽螺が無言で腕を組む。
 百合咲は再び顔を正面に上げた。その両眼は深い闇の色をしていた。

「君たちは夢を水晶体で見ているのかな」

「選ぶ真実による」

 俺はそう答えた。

「夢、というか、転視と言ったっけ。それは一時的に肉体を捨て、精神だけで世界の姿を見ている状態ではないかな」

「つまり現実の目を失えば、常に転視した状態になる、と」

 幽螺が呟いた。

「そういうことかな。君の場合、世界の端から端を摘まんで畳んでしまうことも起きたままできるだろうね」

 幻術に掛けられた時、俺は一度世界を滅ぼしていた。あれと同じことが起こるのか。
 そうだとすると、あの時に目を潰してしまっていたら滅亡も早まっていたのだろうか。
 いや。

「あの時点で潰していたら廃業していたかな。君はまだ人間だったし、それですべてが終わると信じていたから」

 百合咲が先を読んで答えた。

「どうなるだろうね。君はどちらかというと悲観的みたいだし」

 天を仰ぎ、百合咲は現実味のない話を淡々と続ける。幽螺は何も言わないままだ。

「さて、説明はこれくらいにしようか。不可避の脅威に対抗する力はなんだろう」

 突然、奴は俺たちに詰問した。回答者は幽螺も加わっている。
 脅威とはつまり、視覚を失った俺がまた世界を滅ぼしてしまう可能性か。それを避けるためにはどうしたらいい。

 今日まで俺たちは何をしてきただろうか。世界を滅亡させてしまった時、俺は幽螺にナビゲートの代わりをしてもらいながら右往左往して想念世界を渡り歩いた。世界が完全に消える脅威に対抗して、俺は創造する視点を探していた。

「新たな視点を探すことか」

「それはちょっと遠回りかな」

 どうやら最短ルートではないらしい。

「忘れることですね」

 幽螺が答えた。脅威は忘れても残ったままじゃないのか。それは現実逃避、いや、それも真実のひとつになりえる理があるのか。

「忘却はバグでもエラーでもなく、生物の機能として存在しています。サヴァン氏症候群というものがありますが、あれは極端な分野だけに興味を持ち忘れる機能を失った状態とも言えます。老化による記憶の衰えも、思考に必要な情報以外は貯め込んでおく必要がないから忘れていくのです。死が不可避で対抗不可能なら考えても仕方がないですからね」

 聞いてみればすんなり理解できた。なにもかも忘れず意識に滞留したままでは気が散って仕方がないだろう。

「君の師匠は長く逃げていたね」

 天承師匠が生きてきた年数は知る由もない。忘れることによって死の存在から逃げていたのか。
 九鬼も何百年と生きていた。奴は死者を見ることができなかった。それは恐怖からなのか、あるいは、死後の世界を切り離して現世にしがみつこうとしていたのか。

「魔術師は魂の永続を信仰することによって実践しております。想師もまた己と死の存在を切り離してしまえば、簡単に不老不死となりえますか」

「僕は絶対じゃないからね」

 その死の概念そのものは軽く首をかしげた。人間をまねた仕草。

「なってしまったら、つまらないだろう」

 百合咲が踵を返す。

 奴は一つの椅子の近くで止まる。その空席は俺に向いていた。
 空を旋回していたナビゲーターがスッと地上まで降りて来た。鷹は背もたれに鉤爪を噛ませる。

「視覚を失えば、君は完全へ近付く。しかしここへ知識を返せば、視覚は失わず現状維持ができる」

「知識を返せば、お前は俺を殺しやすくなるのか」

「うん」

 百合咲はあっさりと頷いた。

「でも、本当に君が望んでいることは違うはずだ。さっきの答えにしても」

 ふと百合咲は困ったように顔をゆがめ、薬指で眉間を掻いた。

「その知識は取引の材料になるとわかってるだろう。もちろん身近な魔術師にそれを与えようとも思っていない」

 百合咲の言葉を聞いて、幽螺はやれやれと残念そうに肩を落とす。さっきからなんなんだこいつは。

「君は視力を失うこと自体、本当は恐れていない。ただ、ある未来の可能性を怖がっているだけだ。その答えをここへ求めに来たんだろう」

 可能性。
 それが何を指しているのかは、明白だった。
 ナビゲーターは椅子から動かない。

「今この時にも探しているんだろうね。払う代償は最小限に、逃げ延び、あわよくば欲を満たしてもらう。そんな良い道があるんじゃないかって。それを本当にやってのけてしまうのだから油断がならない」

 百合咲は淡々と続けた。蟻の観察でもしているような冷酷さで、俺と幽螺を見つめている。
 
「しかし、そんな大層な所からアプローチしなくてもいいと思うんだよ」

 俺の質問を待たず、百合咲はそう言った。

「何?」

「つまり、君が最初に選んだ引退も、良い手の一つじゃないか」

「それでは彼女は救えない」

「救う必要があるのかな。だいたい、頑張るのは彼女だと思うんだけど」

 百合咲はため息をついた。
 心の底から呆れているようだった。
 答えに迷っていると、百合咲は大きく欠伸をした。

「あとは君たちで相談しておいてよ」

 椅子から離れた。幽螺と俺の間を抜けて何処かへと歩いていく。

「そうそう、差し入れありがとう」

 振り返ると黒い男の姿は消えていた。
 百合咲は去っていった。

「どうされますか。草薙さん」

「世界を知覚するものは、目だけじゃないんだろ」

 俺は正直に答えた。

「できれば、ことが無事に終わるまであれとは関わりたくないんだ」

「彼は確かに現界した『死』でしたし、ここに現れたのもその存在として来ていました」

 視線を向けると幽螺は黒猫の姿に替わっていた。
 大きな瞳が俺を見据えている。

「しかし彼の手にかかる以外の不幸を、あなたは知っているはずです。子供の顔を見れないまま視覚を失ったとして、それも結構な不幸だとは思いますけどね」

 尻尾を苛立たしく揺らして黒猫が言う。
 それもそうだ。

「失いたくないというあなたのエゴを、彼女にも押し付けるつもりですか?」

「そんな気はないさ」

 本音のはずだった。だが、俺の声は掠れていた。
 黒猫の顔がフシュッと息を吐いた。どうやらため息だった。

「あるいは御粗末な脳味噌に残った全能神の知識で新宇宙でも作り上げましょうか」

「そんなことができるのか」

  眼の前に星を湛えた宇宙の塊が見えた気がした。思わず反応すると幽螺が一層呆れた声で続ける。

「理想郷どころか地獄にしかならないでしょう。こんな言葉に期待するくらいお疲れらしいですね」

 長い尻尾が動いて宇宙を霧散させた。

「このことは保留にして、もう目覚めなさい。目については私がなんとかします」
「いいのか、それで」
「返済期限は決められておりません」

 黒猫の顔で意地悪く笑った。
 その言葉を最後に、視界が白くなり、次に瞼を開いた時は慣れたベッドの上に居た。



 彼女は、彩香は、喫茶店の店主で、母親で、普通の人間として生きている。
 俺自身もそうやって、彼女と一緒に老いていきたい。しかし、永遠にこの幸福が続いてほしいと望んでいる面も確かにある。

 失い方によっては、俺は死ぬことも忘れて、思い出に浸りながら彷徨う化け物となるだろうか。あるいは師匠のように、時代をまたいで生き続ける老人になるのか。
 だが師匠は死んだ。長く生き過ぎたと言って、あの日この世から去った。

 いずれその時は来る。
 それまでに後悔しない選択さえしたらいい。


#5

◇主人不在のあおぞら

 喫茶あおぞらは、いまだ休業中だ。
 調理場と客席を区切るカウンターから店内を見渡す。仕事中の彼女の視点。今は調理場の蛍光灯だけ点けて客席は無灯だ。配膳とレジ程度の手伝いはして来たが、彩香の手でしかできないことのほうが多い。
 カウンターにはうっすらと埃が積もっていた。彼女が帰ってくるまでに掃除くらいはしておこう。

 鳴らないはずのベルが鳴った。ドアを開けて何者かが入ってきた。影が歩み寄るにつれ細部の形が見えて来る。見覚えのある山高帽を認め、災厄が入り込んできたな、と思った。

「コーヒーをお願いします」

「今日はやってない」

 九鬼の注文に、俺は手で払うジェスチャーをしながら応えた。
 勝手に鍵を壊して入って来る奴は客ではない。

「それくらいできるだろう。味は嫁に敵わんだろうが」

 慇懃な態度を解き、九鬼はカウンターに手を突いて迫る。カウンターが割れないかと心配になった。昔ほどのおぞましさはないが歯を剥いた笑顔は凄味がある。

 コーヒーを飲むまで帰る気はないのだろう。

 準備を始めたのを見て、九鬼はようやく席に座り、山高帽を脱いだ。
 どうにも、こいつは苦手だ。

 彼女に教えられた通り、ソーサーを回しカップの正面を客側に向けて出す。

「砂糖」

 九鬼が指摘する。うんざりしながら、戸棚で眠っていた砂糖壺を探し出して補充する。

 白い結晶の粒をスプーン山盛りに掬い、いつものように一杯、二杯、三杯……今日は四杯目まで黒い液体に投入した。ティースプーンに持ち替えて、愛おしむ様にゆっくりかきまぜる。見てるだけで甘ったるくなったコーヒーを口に運ぶ仕草もどこか芝居がかっている。

 嫌いな相手とは、裏を返せば自分自身の嫌いな部分に似ていて、顔を合わせるたびにそれが鼻につくからだと。あおぞらに来ていた客が話していたのを思い出す。信じたくないが、思い当たる節はある。親近感が裏返って妙に鼻につく。
 苦手だ。
 一度助けられたことに感謝していないわけではない。悲壮な境遇に同情もした。

「入れた奴の甘えが移ってるな」

 九鬼はわざとらしく顔をしかめて酷評した。どうにかしてやれないかと思ったが、コーヒーを出した時点で客と認めてしまったようなものだ。
 俺は不満を飲み込み、台拭きを絞って掃除を始めた。





「なぜ私を生かした」

 ぽつりと、九鬼がつぶやいた。
 疑問はもっともだ。こいつなら、世界の滅亡と再生を把握していてもおかしくはない。なぜかそう思えた。

「わざわざ繋ぎ止めたのには理由があるだろう。『サトリ鬼』を返そうとでも思ったのか」
「さあな、俺は知らない」

 正確には覚えていないのだが。掃除の手を止めてカウンターを見る。顔を上げないままコーヒーの黒い水面を見つめていた。

「お前自身にやり残したことでもあるんじゃないのか」
「ふん」

 九鬼は鼻を鳴らすだけだった。一口すする。
 カップを置いて、視線を逸らしたまま、九鬼は言葉を続けた。

「私も必要十分は殺さないようにしておる。依頼人と直接会わんようにしたりな」

 ニヤけていた口角は下がっている。傾いた横顔はどこか疲れているように見えた。

「視点の固定から解放されたとはいえ、目の前に打算と憎悪で薄汚れた顔を出されればその腹の内も気になろう。それでは固定していた時と何も変わらん。で、なくとも。殺戮に身を投じているだけで、また肉体は変化していく」

 瞳がこちらを向いた。その眼だけはかつての頃と同じで黒々として、暗く冷たい気配を宿していた。

「しかし、私には殺す壊すしか能がない」

 俺の顔を見据えて、九鬼は宣言した。

「何もせんと生きていくことはできるが、それでは死んでいるのも同じだ」

 九鬼はそういうと砂糖壺の蓋をあけ、半分飲んだコーヒーに追加の砂糖を投入した。そこまで不味いか。

 死んでいるも同じ。
 『サトリ鬼の視点』で見ていた地獄の景色。それは俺自身も見ている。天承師匠は奴に「ひっそりと独りで死ぬが良い」と言った。あの悲しげな顔は、今でもはっきりと思い出せる。
 そうすることでしか社会と関われない。それがどれほど惨いか。

「殺さねば生きていけない。結局、それが私でしかないということだ。だが私に限ったことではない。命を削り身を焦がしてまで人は進まなくてはならんことがある。蔑まれようが、賞賛されようが。殺しではないにしても」

 九鬼は淡々と続ける。
 諭しているわけでは、ないのだろう。

「お前も変わらないはずだ」

 答え合わせを待つかのように、黒い瞳がこちらを見つめていた。






 天承師匠に言われたことがある。

「人を殺す仕事じゃ。なぜやりたい」

 俺は何も答えられなかった。

 師匠が渋っていた仕事が復讐殺人だと分かって、最初は戸惑ったが、自分から申し出たのだ。
 そして師匠に聞かれた。なぜやりたいのか。

 当時の俺は、何も答えられなかった。
 修行の成果を見せるチャンスを待っていた。自分をこき使っているこの老人をギャフンと言わせたいと思った。殺戮よりも一人だけを殺す方がまだ楽なような気がした。
 それらしい理由をいくつか考えることはできるが、口に出すことができない。

……たとえば、こやつ一人を殺したら他の人間の命が助かるから、とか。たとえば、法律から漏れ出た凶悪犯を裁かなければならん、とか。仕事をこなせればこんな老人にこき使われることはない、とか」

 最後に上げた例でぎくりとしたが、師匠は終始優しい声だった。

「そうやって正当性とでもいうのか。今のお前には、それを口に出すのも憚られるわけじゃなあ。最初の一度、自分がやっても良いと思ってやったことが、ああいう結果になったわけじゃから」

 そうだ。
 自分が想師として目覚めた切っ掛けだ。それが引っかかっていた。
 両親を自分の手で殺したのだ、俺は。

 ふっ、と師匠が笑った。

「任せんとは言っておらぬ。意味など考えるのは余裕が出来た時で良いわ」

 そして、持っていた資料を俺に渡し、歯を剥いた笑顔で、だがどことなく寂しそうな声で続けた。

「自分が神になったかのような気持ちで行け。ただの虫けらでも潰すように」

 師匠は、自身の『目標』を諦めていなかったのだろう。俺に教えている時も。

「結局、最後に残るのはそういう奴よ」

 殺しの仕事をこなせるようになったことは、決して師匠の影響だけでない。俺が冷徹な人間嫌いである証明かもしれない。空想へ逃げていた高校生時代。この世界に自分が溶け込めていないような違和感は、勉強机で問題を解いていた頃から今も消えていない。
 『神の座』からこちらへ戻って来ないまま、師匠の期待に応えるべきだったのかもしれない。

 しかし、俺はそれでも。






 それでも。

「真実は無数に存在するからな」

 彩香のようになれるわけではないが、彼女のために尽くし、彼女を守るために俺は生きている。共に生きていくことを、彼女は望んでいるのだから。
 偽善であっても、彩香に少しでも近付きたいと思っていた。

「分岐は一つしか選べないが、一生一つの目標しか追えないわけじゃない」

 九鬼の生き方は否定しない。
 だが、九鬼と俺との差は大きい。

「師匠のように、まだ何百何千年と生きるつもりなら、この先も殺す壊すしか能が無いなんて決められないんじゃないか。自分に限界を設定するな。と、師匠も言っていたぞ」

 だから、簡単に命を削るわけにはいかない。それが俺の出した、今の答えだった。

 九鬼はしばらく黙ったままだった。
 静寂が戻ってくる。奴はコーヒーカップを手に取り、口に付ける。
 中身を一気に飲み干し、カップを手にしたまま、にわかに肩を揺らして笑い始めた。

「く、くく、くくくく……

 あの恐竜の顔になるのではと不安になる。顔だけではなく全身も変化して、五十メートルくらいのスケールになってしまわないだろうか。いや、考えるな。俺の想像力のせいであおぞらが破壊されることになる。いざとなったら目を閉じるべきか。
 脅威の象徴を前に隙を見せるのを目蓋がなかなか許してくれない。

 しかし、奴は笑い声を抑えて、静かにカップを降ろした。

「私を一度殺しただけのことはあるわ。まったく甘ったれた思考だ。それに高慢だな」

 高慢の塊のようなこいつには言われたくない。俺を見る人間の顔は、また嘲るような表情に戻っていた。

 九鬼が席を立つ。スーツの懐からまだ真新しい札を取り出してこちらに向かって弾いた。
 それがヒラリとカウンターから滑り落ちそうになり、俺は慌てて代金を受け止める。

「まだまだ引退など出来んな。お前は」

 顔を上げた時には、奴はもう店の外に出ていた。窓越しに見えた歩き去っていく横顔はまだ笑っていた。

 緊張が解け、壊された鍵を直そうと俺は入口に近づく。
 しかしどれだけ調べても、ドアは壊されていなかった。


おわり