本書の内容は、塩漬鰯が並列世界を越えて受像した思念を脚色編纂した文書です。
一部不適切な内容を含みますが、話者の意志を尊重して残してあります。ご了承ください。体質に合わない場合無理な読破は推奨できません。なお、安全のために狂信者や原作者の目の届かないところへ保管するようお願いします。

 

 ケンの苦悩と、絵美の想像と、二次創作に伴うなにかについて
 小説本の内容です。縦読みできるブラウザやサイトをつかうと読みよいかもしれません。
 おそらく人を選ぶ(中学生日記的な意味で)内容なのでアレな感じの場合はそっ閉じしてください。

 

  一 おしとやか

中学二年目のその日がことの始まりだった。

日曜は広すぎる自宅がいっそう空虚に感じる。無線機に引っかかる放送すらつまらないとなると、俺はベッドの上か家の外へ逃げるしかない。その時はふらふらと遠出して、夕立に降られ、雨宿りできる場所を探していた。たったそれだけのことで、彼女を発見したのは全くの偶然だった。

絵美は俺の希少な友達の片割れで、半年前に他県から転入してきた。それまで知っていた彼女は『おしとやか』の言葉そのままの存在だった。女性らしくひかえめで、俺がふと暴力的な言葉を使うと傷ついたような顔をする。時々妙な行動で気をひいては、いたずらっぽく笑っている。初めて会った時よりそういう印象から覆らない人物だった。

その時バス停で目が合った、彼女とは全く正反対のイメージで姿を固めた女に絵美の要素を認めたのは、自分でも不可解だった。ボストンバッグを背負っていて極端にデフォルメしたような化粧をしている。サングラスの曇りのせいかと思って視線を外すと、彼女のほうから行動があった。俺の袖を殴るように掴むと近くの喫茶店まで引き摺っていき、

「雄治には言わないで」

前置きもなくそう言った。あいつの名前を『雄治くん』ではなく呼び捨てで呼ぶのは始めて聞いたし、目の前の女が絵美だともしばらく信じられなかった。しかし雄治と共通する知り合いは俺には絵美しかいなくて、止め処なく耳に流れ込んでくる声は低くまくし立ててはいるが、絵美のものでしかなかった。俺の腕を引いた力も彼女のイメージとは程遠い痛さだった。

 

絵美はアルバイトをしていると言った。家の者にも黙って。今回はそれが判明しそうな危機があって、帰る途中で着替えるつもりだったらしい。

「そんな格好をして、知り合いの目を気にするような仕事なのか」

化粧室でいつもの姿に戻った彼女は、頬を赤くして俺の質問に答えた。

「学生演劇の延長よ」

彼女の乾いた唇は、頼んだカフェオレを冷ましながら、口に含む。

あまり後ろ暗さのなさそうな反応に、俺は内心胸を撫でおろした。俺は絵美がどんなことをしても構わないが、雄治の反応が、当時はまだ分からなかったからだ。彼が絵美に気を持っているのはもう分かっていて、二人が仲互いするようなら俺が取り持たなければならない。そういう面倒はできれば避けたかった。彼女にもそのまま伝えると喜びを隠しているようで、雄治とは相思相愛だったことはその日から分かっていた。

それからさりげなく仕事内容を聞き出そうとしたが、はぐらかされてしまった。話しながらこれまで彼女が俺と雄治に語っていた夢の数々を思い出した。その内の一つに、俺の想像とは違う方向で、彼女は進んでいるのだと思った。

「バイト代があるから」

奢りを断られ、再三今日のことを口外しないように釘を刺され、俺は喫茶店に取り残された。雄治抜きで彼女と会話したのはこれが初めてだったと、雨が止んでから気が付いた。

冷めたコーヒーの苦さと一緒に、この出来事は忘れられないものになる。

 

   二 独り同士

俺と絵美の共通の友人は雄治だ。

だがそれ以外に絵美の友人関係を、俺は知らない。

たった一日、雄治がそれまでの皆勤を破って欠席した日があった。その日最初の授業が終わってから、俺は気だるく机にうつ伏せていた。いつも授業が終わったあとは寝たふりをしている俺の元へ、雄治と絵美がやって来る慣例が出来ていて、それはクラス替えで離れ離れになったとしても変わりなく続いていた。馬鹿馬鹿しい話だが、当時の俺は周囲を嫌悪感さえ出して拒絶しておきながら、友人には全くの別人のように振舞うことに違和感があり、二人と知り合ってからもしばらく斜に構えた態度を崩そうとしなかった。

廊下側、最後列が俺の定住位置だった。小学生の頃から変わらない。

教室の前方に座っている彼女と雄治は大抵は楽しそうに話しあっていた。雄治がいなくても、絵美だけでもいつもの慣例を行うのだろうとその日は思っていた。やはり無関心を装い、机に頭を乗せたまま絵美の方へ目を向けた。

彼女は、なにもしていなかった。

授業の復習をしているのかと思ったが、違った。時間をどう使えばいいのかわからないと言うように、手に持ったシャーペンも動かさず、ノートに視線を落としている。腰まである黒髪に隠れて、表情はわからなかった。

次の休み時間でも同じことが続き、教室移動以外、彼女は昼食の弁当を広げる時ですら、誰かと話す様子もなかった。話しかけようともしたが、見えない壁のような拒絶を感じて、遠くから見ることしかできなかった。

 

雄治が居ない日、彼女も俺も同じ独り同士だった。

 

ゲームセンターで小遣いを貰って注意を受けた奴や、女子で売春がばれて退学を食らった奴などいくらでもいたが、絵美はその反体制チキンレースの中でも立ち回りが上手いほうだった。成績を目立たない中間の位置で保ち、転校前から作り上げてきたおとなしいイメージも崩さないようにしていた。

しかしそれが有効なのは大人だけで、生徒の間では尾ひれの付いた噂が広まっていた。噂の全てがでたらめだと俺は分かっていたが、目の前で話されると我慢できない時もあった。俺と雄治が神経を逆撫でされるのも露知らず、彼女は平気らしく、雄治との関係にも影響なかったので無理に止めさせようとは思わなかったらしい。絵美も雄治も、本当に我のぶれない二人だ。

だから、実際の彼女がどんな仕事をしていたのかは聞いてはいけないような気がして、今も知らないままでいる。

 

翌日、雄治が登校したあとは元の彼女に戻り笑顔を絶やさなくなった。だが俺は、常にその笑顔を疑うようになってしまった。雄治は可能性さえ考えたとしても、彼女が世界の残酷さに染まっていない存在だと信じていたのだろう。

二人が独り同士だった日の壁の正体は、『無垢であって欲しかった』と願う俺の勝手な望みだったのだろうか。今でも考えることがある。

 

   三 運命的とも

最初に会った時、彼女は顔を濡らしていた。

新居から通学路の確認の道中、男子高校生たちに絡まれていた絵美。下校中に偶然通りかかった雄治が助けようとして、返り討ちに遭い、同じく偶然通りかかった俺が、偶然携帯していた護身具で散らした。それが切欠で三人の関係は続いている。

運命的ともテンプレート的とも取れるこの一幕の、どこまでが必然で、どこまでが偶然だったのか。少なくとも俺だけは確かな意思を持ってそこに居た。

 

その日の午後、社会の時間は自由研究の発表で、樫村雄治は自らのグループを代表し担任教師を圧倒する勢いで校内の治安悪化を糾弾していた。

俺が雄治を認識したのはその時が初めてで、正義感が強すぎて神経質、理論は滅茶苦茶だが、意志が弱い奴なら勢いで押し通されそう。それが雄治の第一印象だった。代表と言っても奴が単独突っ走った結果かもしれない。ナイフ携帯の危険を語ったあと校則の話になり、俺のほうを見てアクセサリー類の違反を語り始めた。

俺のサングラスは光に弱い眼を保護するためとして特例になる。そう入学の時に申請していた。担任に説明されると雄治はバツが悪そうな顔になり、苦し紛れに髪の色を注意して、別の話に移った。

この時、何人かの顔色が変わったのは、そいつらが自分の罪深さに気付いたからではなく、雄治が俺に関わったからだろう。

当時の俺こと三島健一郎は、自分で言うのもなんだが相当に荒れていたので、雄治を闇討ちする機会を伺っていた。後先考えない馬鹿が袋叩きにされる前の警告……――のつもりは一切なく、「とりあえず今日はあいつを殴っておこう」ぐらいの気分だった。結局、雄治は袋叩きにはあったし、暗器は別の後頭部へ打ち込まれたが。

中学三年目の秋、試験範囲を聞くついでに絵美にこの話を伝えた。三人で同じ学校へ進学する約束をしてから、彼女とは一対一の電話で話す機会が増えていた。自分を装わず話せる相手は、彼女にとっても悪くないようだった。俺の話を聞くと絵美は他愛も無いように、あの時自分が置かれていた状況を教えてくれた。

彼女に絡んでいた高校生が、彼女の元仕事仲間だったという。かつて他県に住んでいた新藤絵美は、夏休み中の仕事で二週間ほどこちらへ来ていた事があり、同じくバイトに入っていたそいつと小さな諍いを起こした。黙らせるために相当な仕返しをしたと教えてくれたが、ここに書くのは俺もはばかられるので省略する。そもそもの発端は仕事場で絵美が奴のミスを注意したことで、年下の女に注意されたことが奴には気に入らなかったらしく、何度も嫌がらせを受けていたのが徐々にエスカレートしていったのだという。

あの日その相手とばったり出会い、当人同士の口論とそれを取り巻きが茶化している様子が、雄治には悪漢にかどわかされる少女に見えたのか。しかし俺たちが関わらなければ奴らは賠償と言って、どこへと連れて行くかも分からなかったらしい。

あんなことになるなら、仕返しなんてしないでおけばよかった。反省して語る彼女に俺は、

「どっちもどっちだ」

と応えた。

「犯されるかと思った」

電話の声は笑っていたが助け出された時の様子を思えばその恐怖はわかる。秘密の多い彼女ではあるが、まさかあの時助けなければよかったと思える程の悪人ではなかったのだと、ここに記しておきたかった。

「それでもね、相手が死んでしまうようなことは、駄目だと思うの」

悲しげに絵美が言うので、磨いていた愛用のブラスナックルを滑り落としそうになった。

 

   四 ほころび

まもなく着なくなる制服の感触は感慨深くもなんともなかったが、彼女の感傷には触れていたらしい。

滅多に使われない三階の渡り廊下で、俺は一度死を覚悟した。

絵美の話を要約すると、彼女は自分の二面性を自覚しており、破滅願望と庇護欲の相反する性格だと自ら分析している。誰にも愛されるよう振る舞い、それがかえって孤独を作っていく。性悪と思いながらも改められないとも言っていた。

なるべく人との関係を減らし誰にも期待を抱かず生きていた俺には、彼女の言葉は理解できても、情動を理解するには想像力が届かなかった。

「独りを選ぶよりも辛いんだろうな」

そう答えると絵美は邪悪な笑顔で俺の頬をつねってきた。

「人生をどう生きるかなんて、人それぞれじゃないのか? 法に触れる訳でもないんだ。無理に改めなくても良いだろ」

彼女の理不尽な暴力から逃げながらそんな内容を口走ったはずだ。俺は楽観的な言葉を発したつもりだったが、そう考える俺自身が、既に諦観に染まっていた。俺のような考え方もあると分かって、絵美の背負うものが軽くなればと甘く考えていた。

だが、

「嫌よ」

細い指が詰襟を掴んで引き寄せた。俺はとっさに、その手を引き剥がしてしまった。自分の心臓が焦り始めたのを感じながら、支えをなくして立つ彼女に言葉を続けていた。

「雄治に伝えたらどうだ。俺に相談するよりは良い」

「そこまで強くはなれない、私は」

彼女の声が震えていた。常に演技を続けながら意志の弱い自分を責める日々が、絵美の人生そのものだった。それは十数年で既に崩れ始めていて、俺はその綻びに爪をひっかけた。

彼女の主張は呼吸に変わっていく。絵美は涙を一滴も出さなかった。自分の足で立って、長い髪も振り乱さなかった。それなのに確かに泣いていた。俺は彼女から視線を逸らしてしまう。一体の人形のように固まってしまった彼女と、間合いを保つだけで精一杯だった。

「今の絵美がバレても、良いだろ。絵美がどんな人間でもいいって、言うはずだ」

俺もそうだからだ。

慎重に削って、削って、削りすぎて折れてしまったような、無力な言葉だけが俺の口から押し出されていった。

この状況で俺から彼女に近付くのは、肌で彼女の髪や震える肩に触れるのは、たとえ彼女を救える唯一の道だったとしても、できない一線だった。彼女も『支え』を探しはしていても、俺との距離を飛び越えることはできないと分かっていた。

存在意義を失った渡り廊下の空間で、二人とも動けなくなってしまった。

 

絵美は黙っている。ここに都合よく雄治が来てくれれば状況は変わるだろうか。俺の代わりに彼女を慰められるだろうか。いや、まだ迷っている絵美をそのままにして、この状況を説明できる気がしない。俺が彼女を追い込んだのだと思われても、実際にその通りなのだが、今まで通りの関係は難しいだろう。

いっそのことすぐ傍の窓から飛び降りてしまいたかった。そうすれば絵美の苦悩も少しの瞬間だけ吹き飛ぶだろう。

そんな決意を固め始めた頃に、昼休みが終わる予鈴が鳴った。

気の抜けた鐘の音が、心を現実へ引き戻していく。彼女も平静を取り戻した。

「ごめん」

絵美は短く言って、先に教室へ向かっていった。

 

そこでひとまず飛び降りの予定は打ち切られた。

  

   五 庇護欲の武装

「今度の日曜日だって。その場の勢いで話題のグループ言っただけなのに」

俺の隣、彼女は椅子の背凭れに腕を組み、スカートから伸びた白い脛を横座りの姿勢で重ねている。雄治が部活動を終えるまでの時間、絵美は俺と会話を交わすようになっていた。

俺たち三人は同じ高校へ行く約束を果たした。上級生に以前彼女へ絡んでいた男子生徒も居たが、たいした事件も起こさず卒業していった。それから絵美の精神は安定しているようで、あの渡り廊下での緊張が嘘のように穏やかだった。

その穏やかさは雄治の目がある時の、愛想のいい、おどおどした、上品な佇まいの、ある意味であざとすぎるようなものではなく。いつも半眼で、足を平気で崩し、悪辣な言葉遣いで、時節あげる笑い声は邪悪で………そんな意味での気を抜いた穏やかさだった。

「日曜日に何があるんだ」

「話、聞いてたの」

「いや」

「イヤホンのしすぎで耳が腐ったんじゃないの? ミレニアム・ナイトのライブよ。雄治がチケット三人分取れたって」

指先が俺の首に触れた。絵美が身を乗り出して、肩に引っ掛かけていたイヤホンを抓み上げたのだ。同時に発した言葉よりも、その無神経な行動が俺の心臓を突き刺した。

本当にあの日などなかったように、いや、あの日が切欠だったかのように距離を詰めて来たのだが、それを指摘する気にはなれなかった。

眉間にしわを寄せた俺を見て、彼女はいたずらっぽく笑い、イヤホンを自分の耳にかざした。俺は仕方なくウォークマンを取り出して再生ボタンを押す。

彼女の指が触れた感触を上書きするように、首筋を自分の手で押さえていた。

「三人か、雄治と絵美と、あとは誰だ」

「あなたでしょ」

「なぜ俺なんだ」

「私が聞きたいわよ。ああ、まだ二人きりは緊張するのかな」

彼女は勝手に納得したらしい。

 

庇護欲から成した彼女の武器は、上品な物腰であり、感情豊かな演技力であり、全身から引き出した美しさだった。

雄治と居る時の絵美の執着心は、彼女を毒蛇のように見せる瞬間があった。その庇護欲の武装を解いた絵美に、俺は色気を感じていた、らしい。その姿を見せられるのは気兼ねなく話せる相手として許された証拠で、反面、彼女の毒牙の対象から外れたことも表していたのだと、俺は無意識に解釈していた。彼女が俺に親友以上の関係を求めていなかったのは、最後まで変わっていなかったはずだ。

興味のないライブでも彼女はいつも通り完璧だった。同じく興味のない俺を引っ張りまわして、雄治と一緒に心の底からのようにはしゃいでいた。流石の俺も後半になればノれるようになっていたが、絵美の処世術は真似できない。ある種の尊敬の念すらあった。

それが、ますます良くない感情をつのらせる要因になる。

 

   六 勘違いをする機会

身体測定の日は休みたかった。かったるいのもあるが、測った内容にコメントを付けられて、肉体に関しても「がんばりましょう」と評価を押されているようで嫌だった。自分の劣った点を再確認させられ押しつぶされる場所が、俺にとっての学校だった。

校則の変更があったらしく、地の髪色が薄い生徒は黒染めしなくてもいいと年老いた保険医が言う。それから長々と染髪料が身体におよぼす影響について説明が続いたが、黒染めは小学生以来からしていないのでどうでもよかった。

隣の下級生もぼそぼそと雑談を始めている。硬い体育館の床に座り、保険医が下がったあとも続く学校の都合を、眠気と戦いながら聞き流していると、中学生だった頃に雄治と交わしたある会話を思い出した。

絵美は化粧っ気が少ない。

そう俺に語った言葉は、雄治は彼女が使う化粧品の匂いを知らなくて、その出所を彼女が使っているシャンプーかなにかと勘違いしているのを意味していた。絵美に伝えた次の日から彼女の様子にぎこちなさを覚えたのは、警戒して薄い化粧も止めたためらしい。化粧をしなくとも十分美しいが、鞄に潜ませた道具からあの香りがまだ続いている。

雄治の勘違いは正されたのだろうか。気付いたとしても、もう彼は校則と正義を妄信しなくなっていたので問題にはしないだろう。奴の女性に対する鈍感さというか、信仰的な姿勢は何に起因するのか。

俺はといえば喫茶店で話しあうあの日が来るまで、彼女に一定以上近寄ろうともしていなかったため、そんな勘違いをする機会もなかったことになる。

「ケン」

不意に話しかけられて俺は一瞬、心を読まれたかと錯覚した。

後ろに座っていた雄治だ。

「お前、地毛だったんだな」

今更か。本当にお前は勘違いが酷いな。言いかけた言葉を飲み込む。

「眼の色素も薄いんだからわかったろ」

「もう少し不良なのかと思ってた。返すよ」

「少しとかあるのか? 何だこれ」

肩越しに何かを渡された。茶色い一本の髪の毛だ。

こいつは退屈しのぎに俺から落ちた髪を観察していたらしい。馬鹿馬鹿しくて口元が緩む。振り返ってみると、雄治もまた笑っていた。

「いらねえよ。放っとけ」

「やっぱり、おかしいと思ったのか。わざわざ黒く染めるなんて」

「別にどうでもよかった。どうでもいいネタで生徒を苛めたがってんだなあと思っていたが。ところで、すね毛も同じ色だ」

ジャージの裾をまくって見せると雄治は顔を隠して笑いをこらえだした。

しばらくふざけた話を続けて、下の毛も同じ色だと下着に手を突っ込んだところで、俺の名字が生活指導の太い声で体育館中に響きわたった。

俺を押しつぶさずにわかろうとしてくれるのは、雄治と絵美だけだった。どちらも俺の親友だ。三人でずっと居られるなら、それだけで良かった。

 

   七 目一杯の背伸び

絵美は眠たげな目でシャーペンを走らせる。向かい側から自分のノートではなく俺のノートに落書きをしている。彼女から見れば逆さまなのだが形は崩れていない。見せるようにして描いている。指数を踏みつけ、丸い角を生やした馬のような、網目模様の生物が向かい合った。

首の長い奴と、短い奴。

「キリンの首が長くなった理由って……」

宿題を持ち帰る前に片付けようとしている俺に、彼女はそう切り出した。今日の授業で生物教師が披露した知識だ。中学の時も別の生物教師が、まったく同じ内容を語っていたと思う。

「高い所にあるえさに届くため、だったか」

俺が嫌いだったのは教室で退屈な授業を聴かせる教師達だけで、教えられたままを真に受けるほど学問に興味がないわけではなかった。だが、『求める事で変えられる』考え方を俺は悪くないと思っていた。

彼女の描いたキリンの間に、梢の高い木を描きこむ。首の長いキリンはその葉に口が届く。短いキリンは届かない。

「でも、もともと短く生まれたキリンが、長い首になれたわけじゃないのよ」

たしかに実際の理屈なら、進化論は突然変異した種が環境に適応して他を淘汰して繁殖する説だ。頭ではわかっていても俺が想像する進化の図は、一体のキリンの首が樹木のように成長する様子から、なかなか離れなかった。

「偶然首が長かった奴が増えただけって言うんだろ。わかってる」

「シマウマだって、速く走れる子供ばかり生まれるわけじゃない。鷹も飛べなかったからっていって、ダチョウやペンギンになったりはできないでしょ?」

彼女が伝えたいことが当時は分からなかった。今から返答を返せるなら言葉を探しただろう。だが、何度思い出を改変しても、現実は変わらない。

「首が届かないキリンは、死ぬしかなかったの」

その言葉が強烈な皮肉だと理解したのは、随分と経ってからだ。俺に向けて言ったのでなければ、彼女はもうその時に人生を諦観していたのかも知れない。

絵美はふっと、冗談だと言うように笑った。細い指が消しゴムを取り、絵を消した。首の短いキリンも消えた。

ノートには、宿題の式とかすかな跡だけが残った。

 

彼女は席を立つ。目元をさすり表情を整えながら、廊下側の窓を眺めて、部活を終えた雄治を探している。

俺は居心地が悪くなり、消された首の短いキリンをこっそり描きなおした。

目一杯の背伸びをさせたら、心なしか、元より首が長くなっていた。

   八 俺は邪魔かな

なぜこうなったのか。俺と雄治は絵美への誕生日祝いを探しに来ていた。

奴も素直に彼女を誘えばいいだろうに、

「プレゼントが何か分かったら驚かないだろ」

そういう無駄な工夫を画策する雄治と、百貨店の中を歩いた。

驚かないより微妙にいらないものを貰うほうが悪い気がする、奴の価値観では違うのか。

突撃前の歩兵のようなお世辞にもかわいらしいとは言えない友人の肩越しに、華やかでごてごてした雑貨の群れが見えてきて、その対比に眩暈を起こす。次のエスカレーターでゲームセンターの階まで行こうとしたが、すぐ連れ戻された。

この演出は失敗する。最初から確信していたし、実際にそういう結果だった。しかし愛し合う二人の大事なイベントだから協力するしかなかった。あとは絵美の演技力に賭けよう。考えながら、自然と『愛し合う二人』の言葉が浮かぶ自分に皮肉な気分が沸きあがった。

「候補は先輩たちに聞いてきたんだけどな。ケン、どう思う」

「先輩ってのは、剣道部の男か。まあ、女でも当てにならないが」

雄治が居る部活の面々と絵美とでは趣味が合う気がしない。質実剛健、規範と正義を愛し、なぜだかファンシーグッズを好むやつが多い。

絵美は『喜ぶ』ことはできるだろう。彼女が本当に好きな物はわからない。俺も普段聴かないジャンルを勉強したが、絵美の傾向は繊細すぎて困難を極めた。あとは装飾品の類くらいだが、男共だけで売り場へ向かうのは絶対に避けたい。プライズでも充分辛いが。

雄治は腕が一本だけ生えたくらげのぬいぐるみを掴んで見つめている。

「当人に聞いたほうが早いぜ」

絵美とデートの約束でも取り付けて、そこでプレゼントも選べばいい。それが最良の選択だと考えて提案した。

振り返った雄治は、明らかにプレゼントとは別の事で悩んでいた。

「ケン……最近、お前さ、絵美と仲良さげにしているけど……」

嫉妬心か、それとも別の意味で出たのかはわからない。

しかし、その言葉は俺を揺るがせた。

「俺は邪魔かな」

「そんなわけないだろ」

すこし強い語調になる。しまった。そう思ったがフォローも思いつかず、サングラスの奥で視線をそらせるだけだった。雄治も黙ったまま、ぬいぐるみを棚に戻した。

 

しばらく頭の中が真っ白になっていた。

 

あの言葉に揺るがされて、それまで掴めなかった考えが固まり始めた。凍る直前まで冷やされた水が、衝撃を加えられて氷になっていくように。

俺はただ、これから先も三人で、今の関係を続けられたら良かった。しかし雄治の目にはそう映っていなかったし、俺自身もどうしたいのかわからなくなってきていた。

たとえば女性らしさをかなぐり捨てた下品な笑い声や、嫌いな音楽を批評する大人ぶった言葉や、絶望を見つめた皮肉な表情や、そんな絵美の姿を見て粗野な彼女すら受け入れる自分自身に、俺は酔っている節があった。その姿すら、絵美が俺に合わせて装っていた一面でしかないとは考えなかった。残酷な社会からの評価を掃いて捨て、真理を愛し、卑屈にならず、活力に満ちて生きる彼女の姿は、俺がなにより憧れるものだった。

俺はその姿が本物の彼女であり、見せるのは俺への信頼だと思い込んだ。だが絵美は弱い自分を隠すために、相手の求める『自分』を鏡のごとく映しているだけだった。

中学生の最後に渡り廊下で交わした会話が、もっとも本心に近いものだったのかも知れない。折角見せてくれた彼女の弱さに、俺は戸惑うしかなかった。彼女はまた自分を閉じこめてしまっていた。

絵美は雄治が好きで、それだけは一目瞭然だった。俺も雄治なら大丈夫だと信じていた。なのに俺は自分が知っている彼女を、雄治に伝えなかった。絵美は自分を変える切欠を欲しがっていたし、雄治もそのくらいで幻滅しないのに、だ。

最初に彼女の「裏」を見た、あの喫茶店から。

あれから何度も繰り返された口止めの約束の意味は、誰も信じられない絵美がそうする意味は、俺だけを信用してくれたなんて都合のいいものではなかっただろう。彼女も約束を守って貰えるとは、俺の目的を理解していれば、なおさら、考えなかったはずだ。

 

俺が、雄治の親友で、絵美と同じ誰も信用できない人間だからだ。

 

俺が理性を保ってさえいれば、いつまでも三人のぬるま湯のような関係が続くと思い込んでいた……だが、もう捩れ始めていた。

理性の死んだ俺では邪魔になるだろう。邪魔なのは、俺のほうだ。

 

プレゼントの授与式が終わったあと、二人から離れていくには十分な理由だった。

 

   九 楽しむための教訓

暗い天井を見ている。

昔かかった医者に、習慣を変えなければ体調を悪くするのは仕方ないと言われた。過剰に光を避けすぎている、と。サングラスは必需品だが、日照時間も大事だから。それでも俺が暗い自室に居続けているのは恐怖心がそうさせている。

太陽の光だけではない。あらゆるものの干渉を避けている。身体など、都合の良い言い訳だ。

 

物心ついてから小学校に上がるまで数年間、親は何度も俺と旅行をしたがった。仕事柄、家族で各地を渡ることも考えていただろう。

だが、一度空港の出口で倒れてから、俺の中で『外』への恐怖心が生まれた。どんな対策を講じても飛行機に乗れば気分を悪くするし、出歩けば必ず倒れる。いつからかはっきりと、見知らぬ場所を恐れるようになり、旅行に伴う症状はますます悪化した。

旅を楽しむための教訓こそ教えられるが、楽しい思い出は全く得られない。ただただ見知らぬ人間への警戒心だけが育ち、どこへ行っても大半の時間をホテルの天井を見て過ごした。笑い話にしかならないが、そうする内に拒絶反応は明らかな行動に出はじめ、二人も俺を連れまわすのは無理と判断した。だが、せっかく建てたこの家にも彼らは定住することがなかった。

仕事をやめられないから。良い言い訳だ。

傍に置いたラジオからバンドボーカルが「意志の力を信じろ」と叫んでいる。絵美が好きな、いや、好きという体の『ミレニアム・ナイト』の演奏だった。毎日一回は流れてくる。きっとどの局の人間も飽きはじめているだろう。彼女のその意見には同意した。だが独りに戻ってからは、このありきたりな音律とボーカルのダミ声のお陰で、重い気分が深刻なものにならずに済んだ。

雄治の部活が終わるのも待たず、すぐこの家へ帰るようにしてから、どれほどが経ったのか。ほんの二、三年前だが、あの頃と比べてわだかまりが残るようになっていた。拒絶の壁を作って過ごすのに覚悟が必要になった。昔は、他人と関わるほうが疲れていたのに。二人と出会ったことで俺の体質が変化していた。

三人で行ったライブは、学校行事も避けてきた俺には久しぶりの『旅行』だった。彼女や雄治と話しながら乗ったバスの臭気、会場に立ち込める熱気に酔っても、二人の前で倒れはしなかった。俺は拍手の波の一部になっていた。

暗い天井を見ながら、あの時と同じように両手を合わせてみる。ため息が出るだけだった。

 

俺も両親も、相手を想う不器用さだけは良く似てしまっていた。

今の仕事を続けなければならない理由も、酷い喧嘩に発展してから聞けていない。昔なら年に一度この日に、必ず家へ帰って来ていた。忙しい時でも旅先から手紙と贈り物が届いていた。今となっては、顔を合わせて口論にならなければ良いほうだ。最後に交わしたまともな会話は、日曜くらいは自分の面倒を見れると、家政婦のシフトを俺の意思で変えられるようにしたくらいか。

今日が日曜日かつ、あの二人が帰って来ない日で良かった。ただでさえ気が滅入っているのに、かみ合わない会話で体力も奪われていくなど勘弁してもらいたい。気を使われたりしたら最悪だ。時々、どこか見知らぬ土地で二人が野たれ死んでいる様を想像をして『ざまあみろ』と毒づくこともあるが、生活費の仕送りは続いている。

絵美のように仕事をして独立の準備を進めようかとも考えたが、受かりそうなバイト先も見つからないし、考えなしに家を飛び出しても意味がないと知っていた。やはり家に籠城して悪態をつくしかできなかった。

反抗期を燻らせている自覚はあるが、打開する手も見当たらなかった。

 

記憶の中、どこかの国の病室でベッドに横たわった俺が居る。

俺を看ている母は、こっちが苦しくなるほどの泣き顔で俺の髪を撫でていた。何度も見て来た。記憶を重ねるごとに、その顔に呆れや怒りが混ざって行くのも、よく覚えていた。

危険な目にあわせてでも子供と一緒に居たかった理由なんてあるのだろうか。

二人は、俺に何を観せたかったのだろう。

 

今日も暗い天井を見て、眠くなるまでやり過ごそうと思っていた。また明日から独りで学校へ通う日々が続くのだから。

 

インターホンがなった。

 

 

 

   十 思い出したんだ

二泊三日の旅行は初日から散々だった。

特急の車内では背中をさすられながら吐いたし、砂浜の日差しには肌が痛くなったし、出店に入れば不味い飯しか出てこないし、走ったら貝殻で足の裏を切ったし、はしゃぎすぎた雄治が沖に消えて、生きた姿で捜し当てた頃には日が暮れはじめているし、旅館の部屋には変な形の虫が入ってきた。

本当に散々だったが、三人で遊んで騒ぐのは悪くなかった。テレビの不穏なニュースのせいで絵美の表情が曇るのを見て、俺はこっそり持ってきておいた花火の袋を思い出した。

「そうだ、花火でもやろうぜ。パーッと派手にな」

ふと考えて、もう一言付け足した。

「俺、買ってくるよ」

どうせいつかは話をつけに行かなければならない。長引くと勘繰られそうだ。

エアガンを置いて部屋を出る。玄関ではなく、遠くにある別の部屋へ向かっていく。

心のどこかでわかっていた。不器用な親なりに俺を愛していたのだと。そうでなければ海外へ避難する話など持ちかけないだろう。

それでも決意は固まっていた。今更どこへ逃げたって、安全と限らない。

最後まで期待に応えられない子共に嘆くだろうか。心配したが、母も父も、ただ頷いただけだった。

俺はむしろ未来に光明を見ていた。うまくいけば、独立独歩で生活することも、大事な人を守ることも、自分たちだけの力でやれる時代が来る。

日本に留まるのは、雄治と絵美と出会ったあの町が好きだったからだ。雄治もそうだった。三人が同じ場所に生きていられるなら、それが一番だった。

生きてみせる。俺はやっと、世界に希望を見られるようになっていた。

――まだ人を殺す重みを知らなかった頃は――

 

「よかったの?」

会談を終えて部屋へ戻ると、絵美が縁側に座っていた。彼女の傍らには出てきた時そのままの状態でエアガンが落ちている。

浴衣姿で、艶やかな髪を風に晒している彼女は、俺へ向かって顔を傾けた。

「花火。買ってこなかったみたいだけど」

「あ、ああ、思い出したんだ。俺の荷物に入ってる」

家族会議の内容を聴いていたのかと思ってぎくりとしたが、勘違いだった。彼女はおかしそうに笑っている。雄治の姿が見えなかったが、また風呂へ入りに行っていた。あとから頭を冷やすためだと彼の口から聞いて、何があったのかは容易に分かった。夕方にかけた言葉がようやく効いたようだ。

絵美は絵美で、雄治と生きる決心を固めていた。

「あのことはもう言ったのか」

「言ってないわ」

今まで隠し通して来たあれこれも、些細なことになっていたらしい。

「ばれるまでは、黙ってても良いかなって。もう続けられるか分からないし」

不安げな陰りはまだ残っていたが、支えを得たその眼は輝いていて、渇きはじめた黒い髪と僅かに赤い頬がまるで絵画のようで、見惚れてしまいそうだった。

もう、邪な心に囚われはしなかった。彼女の背負うものが軽くなったのなら、ただただ嬉しかった。

 

三人でずっと居られるだけで良い。俺はそう言いながら、自分の嫉妬心や感情が関係を壊してしまうのが恐ろしかった。それならいっそ自分から離れて二人の幸せを想像しながら過ごすつもりだった。絵美が決して優等生ではない自分を隠すのも、きっと同じ理由だったのだろう。

だが、そのために自分を殺したり、関係を切ったりする必要はなかったのだ。二人は俺を追いかけて来てくれた。

まだ弱い彼女と、彼女が好きな優しいあいつを守るためなら、俺は何だってしてやろう。

二人が俺の世界の全てなのだから。

それは決して諦観などではなく、孤独から開放された俺を支える意志だった。

「なに?」

考えがつい口に出ていたのか、絵美が俺の眼を覗き込む。

この距離感も彼女の本能から来る行動だろうか。サングラスを取られそうになったので、手の甲で防いでたしなめた。

「なんでもない」

絵美はハッと、わざとらしく口元を隠して、申し訳なさそうに言った。

「もしかして、雄治のこと狙ってた?」

「……変な想像するなよ」

俺に睨まれて絵美は立ち上がる。彼女が言う冗談は、いつも冷めたコーヒーのように苦い。

彼女があとに残した、いたずらっぽい笑みを見て……――

 

――これだけは、変わらないんだろうな。

安堵感と一緒に、そんな言葉が心に浮かんでいた。

 

 

   十一 後書き

両親は、決して意志の強い人間とは言えなかった。それでもどこかで『貝』になり生き延びているかもしれない。最後節を書きながら、俺は考えていた。

うちのリーダーはとにかく色んなものに興味を持つ。地上を植物で埋め尽くしたら、次は宇宙開発に乗り出し、銀河の外を調べ尽くさないうちに、今度は動物の種類を増やそうと言いだした。大変革で一度滅びかけた地上は俺達が作ったよくわからないもので溢れかえった。

ある日、リーダーは世界中の知識をまとめる場所を作ろうと言いだした。

「図書館か?」

何気なく聴いた言葉に彼あるいは彼女は目を輝かせて、

「まずそれにしよう」

と応え、気の遠くなるような目標を提案したのだ。

当初はテレパス達の知識を頭に流し込まれながら紙の束を精製する地獄のような作業をやらされたが、俺よりも効率的に作業できる人間が現れてやっと解放された。

「自分のことを書いてみない?」

そう提案されたのは、護衛の役割に戻ってしばらく経った頃だ。

これがノートを書き始めた切欠だろう。

セネカは何か思いつくとまず自分で試し、次に俺にやらせた。なぜそうするのか気になって聞いてみると、当然のように答えた。

「だって、やってみないと何もわからないじゃないか。皆に教えるにしても、まず自分が挑戦してみて説明したほうが良い」

ゴドーと俺以外のメンバーなら、セネカの言葉というだけで目から鱗が落ちたような顔をして深く頷き、仕事へ戻るだろう。

だが、ゴドーは慎重で、俺はひねくれている。

「それは俺にやらせる理由にはなってないんじゃないか」

セネカは困った顔をして、癖のある黒髪を掻き上げた。

「えーっと、説明するのも、初めてなんだからさ、試せる相手が欲しいじゃないか。ケンはアドバイスが上手いし」

自分で言うのもなんだが、揚げ足取りをしているだけだ。

だが、セネカにしてみれば、それは貴重な忌憚ない意見になるのか。おそらく他の奴らはリーダーの過去の業績を過剰に加味してしまうのだろう。

「それに昔、言ってたよね。『手に入らなかったものがいっぱいある』ってさ」

……記憶にない。

少なくとも、セネカに伝えてはいない。言葉に発したことではなく、思念波を読み取ってしまったのか。

「そうなの? ごめんよ、勝手に」

「いいさ」

思念に返答される。この現象も意志力が発生しはじめた時代からよく起こっていたものだ。外交も崩壊するはずだ。

「だから一番最初に、ケンに教えてあげたくなるんだろうね」

背中まで伸びた黒髪を揺らして、セネカは笑った。

一年前から書き始めたセネカのノートは、まだ白い部分のほうが多い。

「僕は大変革後しか経験していない」

セネカと同じような、大変革後に生まれて来た人間が増えてきている。大変革前から生きている者達は『ハイエナ』に襲われたり、引退するなどして、世代が入れ替わりつつある。

「意志力がない頃、人が何を考えていたのか気になったし、多分みんな知りたいと思うんだ。記憶はだんだん歪んでいくけど、本は一度書くと歪められないだろ?」

「俺は生きた化石か」

「そういうことじゃないけど、そういうことかもね」

俺のプライベートは、大変革前の生活を垣間見る標本にされるようだ。最初からそれが狙いだったのか。氷漬けのマンモスが叩き起こされた時の気持ちがわかる。

氷。

絵美が氷を選んだのは、いつか解凍して貰いたかったのだろうか。

ノートを書くようになって、言葉が突拍子もなくイメージと繋がることが増えた。そもそも彼女の意志で氷に籠ったかどうかも、俺にはわからないのに。

彼女との記憶は、ここに書いた時点で、既に俺の都合よく歪んでしまっているはずだ。

だけど、まとまらない思いを、癒えない傷を整理するには、良い作業だった。

母と父も、どこか地中深くに潜り、俺が迎えに来る日を待っているのだろうか。

セネカが笑顔を深めた。また思念波を受け取ったのか。

勘弁してくれ。

口には出さず念じると、世界の救世主の一人は、わざとらしく耳を塞いだ。

 

  終   

 

 

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