v 弓を引く男
"弓を引く男"



 釣りをする男。獲物を入れるバケツもない。
 声をかける『彼女』。

「釣れますか?」

 男は軽く顔を向ける。
 しばし間。
 男は口を開く。

「本当は、釣り以外のことをずっとしてきたのに、思い出せない」
「そうなんですか」

 河川敷を通り過ぎる学生。長い袋包みが見える。
 その弓道部員を目で追う。

「弓、ですか?」

 男は釣竿を振る。

 翌日。

「友達が、社会人向けの弓道場に通ってるんです。見学できるかもって」

 釣竿を振るだけ。

「興味ないですか」
「もう弓は引けない」
「……忘れてしまえばいいのに」

 男は違和感を感じた。
 軽く顔を向ける。

「あんた、いや、なんでもない」

 間。

「慰めは望んでない。それだけはわかってる。でも、どうしたらいいのかわからない。だから釣りをしている」

 『彼女』は、ただ空を見ている。姿は見えないがそういう気配がある。
 釣竿を振る。

「もう来ないでくれ」




「釣れますか」

 軽く顔を向ける。
 昨日の女だった。
 男は昔、弓を引いていたことをおぼろげに覚えている。


 俺は的の真ん中を射抜き続けた。続けなければそこには居られなかった。
 大会に出た。区内だろうと全国だろうと関係なかった。
 血を吐こうが気を失おうが関係ない。集中し、しかし平常心で。
 そうでなくてはならない。
 中心を射抜き続けた。

 ただの一度、射れなかった的があった。矢は完全に逸れ、救急で運ばれ、胃を半分切り取った。
 決勝での一矢。

 ずっと弓を引きたい相手が居た。的に重ねているあの偉そうな男の脳天に、この矢が届けば楽に成れるだろうか。
 ずっと考えていた。
 ずっと弓を引きたかった、そんな男が泣きながら俺を見ていたのは、病室で目覚めた時だ。

 叶わなかった。

 意味が解らない。なぜ泣いていた。
 なぜあんな憐れな奴のために、自分は壊された。
 どうせならあの時殺して己も死んでしまえば。だがそうするには足りなかった。何かが。

 何を考えていたんだ。
 俺は、何を期待されていたんだ。

 俺は。



 男は。

「あの日から現れた地獄が、俺を縛り付けているのはわかる」

 釣竿を振る。

「もう来ないでくれ」





 男は釣りをやめて、日雇いの工事現場で働いてる。
 その前を彼女が通りすがり、男に気付く。

「わかりました?」
「……いや」
「見学のこと、考えてくれました?」
「いや」
「そうですか」

 オモチャの弓矢であそぶ子供が通り過ぎる。目で追う『彼女』。

「教わるのが嫌なら、誰かに教えてもいいんじゃないですか」

 どういう意味だろう。

「弓道の大きな大会に出ていたなら、名のある選手じゃないかって。教われることがあるんじゃないかって、友達が会いたがってました」

 女の溶けるような目は、男を見据えていた。

「来ていただけますか」

 間。

「どこまで知っている」
「わかりますよ。あなたの顔を見ていれば、弓が無くてもね」

 女ははぐらかして、歩き去っていった。


 あの日から現れた地獄が、俺を縛り付けているのはわかる。
 だけど、その正体を知りたいから忘れないままでいるのだろう。


 男は立ち上がった。



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