"知略に長けた宰相"



「じゃあお隣のベランダを伝って? 危ないですよ」

 怪しい隣人への第一声がそれの時点で、やはり彼女は抜けている。

「よかった怪我がなくて」

 ガス漏れしていたと咄嗟に嘘を付いたとはいえ、嫌悪感くらい表情に出そうなものだが。
 それよりも僕の安否を気にしている。

「何もない時もいいですか。こうして話しても」

 試しに聴いてみた。

「ええ、今まで通り」

 彼女はなんの感情も籠らない声で、キョトンと返してきたのだった。

「え、いやいやもう少し警戒したほうがいいですよ。異性なんですから」
「女の人でも悪い人はいますよ。おやすみなさい」


 看護学生が一人入ってくるとは聞いていた。なかなか可愛かった。
 唾つけておくつもりで探りを入れてみる。
 どれもこれもノッてこない。女子用の引き出しは全滅。しかもおかまに間違われた。

「趣味ですか。勉強は好きですけど…ごめんなさい。ないみたいです」

 みたいですってなんだよ。
 これは顔がいいだけの空っぽかな。そう思った矢先に、

「ライアスさんは多趣味だし交友も広いしすごいですね。聴いてるだけでも毎日が楽しそう」

 それにイラッと来た。



 あれも結局皮肉なのか本音なのか昨晩でわからなくなった。

 段ボール箱を抱えた彼女がエントランスに立っていた。
 箱から、黒い三角形の耳が見えている。

「ペット禁止なのはわかっていて、でもカラスに狙われていたし……」

 クシュン。ちいさなくしゃみをする。長い間この猫を抱えて立っていたのだろう。

「貸して」

 僕は猫を抱えて大家と交渉した。小動物は何度でも見せて触らせればけっこう使える。仕事でもよく知っている。
 そうして粘り続けてどうにか飼育の許可を取った。勿論彼女の部屋でだ。

「情さえ煽れば容易い。勝算は十分すぎるほどでした」
「お仕事はなにを?」
「え。ええっと、こ、交渉人……?」
「まあ」

 いいか。今回は詐欺じゃないし。


  ◇


 黒猫は彼女の膝で安心して眠りこけている。
 僕の腕には何度も爪を立てたというのに、現金なやつだと思った。

 実習中に発作で倒れたらしい。心臓と肺が弱く緊張を切欠に痙攣を起こす。
 そんな彼女の話を聞きながら、商品のキャットケージをダクトテープで直してやっている。

「自分の体すらどうにもできなくて、誰かの役に立てるんでしょうか」

 彼女の言い分はもっともだ。病人に看られたい病人などそうそういない。

「考えていたら余計に……クシュン」
「まさかネコアレルギーでは」
「それは大丈夫、ずっと外に居たからかしら」

 売れ残りのダウンジャケットを渡して、隣の部屋へ戻った。

 自室へ戻るとすぐに盗聴器のアプリを起動した。
 音声をイヤホンで聞きながら、明日の仕事の準備に取り掛かる。
 詐欺師など地味で面倒くさい職業だ。幸い顔の良さには自身がある。
 なぜこんな仕事を選んだのだろうか。

 無音が続いていることに気付いた。そういえばさっき、なにか重い物が倒れる音がしていたような。
 音感度を調整すると、細い呼吸音が聞こえて来た。

 作業を切り上げて立ち上がる。
 彼女の部屋へ勝手に作った合鍵で入る。やはりというか、ラグマットの上にダウンの塊がうずくまっている。

「あっ」
「救急が来ます。もう少し辛抱して」

 胸をおさえて懸命に息をする彼女を見下ろしていたが、

「ベル」

 彼女の口から漏れ出たのは、猫の名前だった。



 救急車で運ばれる彼女を見送って、俺はケージの扉を開いた。
 首輪が落ちている。

「自分で外したな。そんなに嫌か。そりゃそうだよな」

 アジャスターに仕込んだ盗聴器を回収する。

「お前のこと殺してやりたいけど、やめとくよ」


 いくら手を汚しても無駄だって言いたいのか。


  ◇


 玄関の鍵を開けて、入った瞬間だった。
 世界が暗転した。

 目が覚めると彼女がいた。
 倒れたのか。俺が、過労で? 確かにここ数日間客が増えて休む暇もなかったがそんな。

「あの」

 見られた。部屋の中は正体が解る証拠だらけだ。彼女の眼がくるくると、見ている。

「わかったでしょう」

 観念するしかない。

「今のあなたの年齢くらいから、私は必死で働いてたんだ。結果こんなところに転がり落ちていた。あなたはのんびり休みながら学校行って、毎日楽しそうだよな。大違いだ。地獄だろ。興味もない知識を必死で入れて、下らねえクズ共に愛想振りまいて。今でも。生きるために」

 あるいはもっと早く、自白したかったのかも知れない。
 この女に聴かせたかったのだろう。いかに自分が矮小なものか。

「でも、今の道を選んだのはライアスさん自身でしょう」

 彼女は怯えながらも、はっきりとそう聞いた。

「悪に染まるのを嫌って死んでいく人を、私は馬鹿だとは思いません。だけど、今のあなたを見下ろすことはできない。どちらが偉いかなんて優劣をつけること、私にはできません」

 ただ穏やかに、穏やかに、彼女は語り掛けてくる。

「つらい延命措置を選んだのはあなた自身。なぜ選んだのか、覚えている?」
「……いつか、苦痛から抜け出せると、思ったから。いつかまともに……」
「そうね。私も選んだの。いつか苦痛から抜け出すために、耐える道を」

 彼女はただ優しく笑う。

「決して交わることはないけれど、絶対にわかりあえないけど、私とあなたは同じ」

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 もっと立派な人間になってから、彼女に出会いたかった。
 でもそれはもう叶わなくて、それでも構わないと彼女は言うのだろう。

「仕事、やめますか」

 ぽつりと口にした。

「大丈夫なんですか?」
「ええ、たとえ死んででも逃げきって見せますよ」

 固まった表情で見上げてくる。

「ふふ、心配なさらず」

 私は彼女の心臓を刺激しないように、朗らかに笑って見せた。

「さて、預金も全部引き出して、南の島にでも高飛びしましょうか。なにか人のためになる……看護の仕事でも覚えましょう。そうしたら、あなたと同じ……いや、どうせなら医者を目指そう」

 そこまで言って急にスイッチが入った。自分でもどうしようもない悪癖。

「秘められた才能が開花した私は天才外科医になって戻ってきます。その時はぜひとも私の病院で働いてください」
「無理なさらなくて良いんですよ。お元気ならそれで」

 己の顔がゆるむのがわかる。

「おわかれですね」




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