"四つ腕"



 最悪だ。

「はぁー!?誰がババアの尻なんか触るかよ!!」
「いいえ!わたくしハッキリ憶えてます!この人です!」

 最悪だ本当に。
 最悪じゃあ無かったらなんなんだこれは。

 コロンのキッツイ臭いが鼻孔を突く。
 60代かそこらの、いかにも毎日健康に気を使ってますと言いながら俺が卸した胃腸薬を移し替えただけの何の意味もないサプリばかり飲んでそうな乾物だ。
 それが俺に向かって「チカン!」と腕を振り被ってきた。

 停車したのがちょうど降りるバス停だったから逃げようかとも思ったが、あまりにも癪に障った。売り言葉に買い言葉で口論に発展してしまった。
 俺の四白眼の凶悪な顔は情を買うには不利だとわかってる。

 バスの運転手は時計を気にしてる。学生が気だるそうにスマートフォンを弄ってやがる。そして乾物の仲間共が小声で相談してやがる。

 ……あの人この辺りでよく見る……
 ……『混じり物』だよ……

 地獄耳がこの時だけは忌々しい。

「混じり物だからなんだって?」

 俺の言葉に乾物Bが目を見開く。

「混じり物だからー? 公共交通機関乗ってるだけでハンザイですかー? うわっ、あーもう無理。精神的に傷ついた。この時代に混じり物サベツですかぁー?」
「いえ、わたし、そんなことは」

 乾物Bのツラが目に見えて真っ青になっていく。血が通ってたのか、その皮膚に。
 同時に心にもない訴えをしている自分が情けなくなる。
 当たり屋じゃねえんだから。

「あの」

 鈴の鳴るような声がした。

「あの、見てました。彼、触ってません」

 震えながら歩み出たのは白い女だった。
 薄い金色の髪と白い肌、淡色のカーディガンが不健康そうな色彩を際立たせて、おどおどと震えていた。

「ごめんなさい、でもこれはね」
「すみません、多分私のバッグです、触っちゃったのは。居眠りしてて、バスが揺れた時に落としてしまって」

 そういえばこいつはドアの前に立っていた。席は充分開いてるというのに柱に寄りかかっていた。
 しどろもどろで説明しながら、女は小さな革鞄を腕に抱えてみせる。

「あ……ええと、……そう、そうなのね。ごめんなさい気を使わせてしまって」

 乾物共はますますしおれて、その白い女に頭を下げた。

「こちらこそすみません」

 女は膝をガタガタさせたまま謝った。

「では、定刻通り出発します。あなた大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「ここで降りますか?」

 運転手に尋ねられたらビクッと眉を上げて、はい。と俯きがちにそいつは答えた。
 その他乗客は白けた視線を送り合い、乾物共は俺に謝罪の一言も言わず、さっさとバスに乗り込んだ。



 バスが去って、しばらく所在なさげに景色と時刻表を見比べていたようだが、バス停のベンチに白い女は腰かけた。

「おまえ嘘ついたろ」

 そいつは意外に俊敏な動きでこちらを見た。ゆるく波打った髪が揺れる。

「バレてましたか」
「ああ。相手が偏見クソババアで助かったな」
「……」

 白い頬が赤くなった。
 なんてことない。これは『悪戯がバレて恥ずかしい』のツラだ。

「あ、そういう勧誘なら間に合ってる。混じり物助けたって天国なんかに行けねえからな?」
「天国…?違います。ただ、私は、あなたが嘘をつくように視えなかったから」

 女は赤面したまま答えた。
 その伏せた目を見て、ムカムカと胃が持ちあがって来るような不快を感じた。

 俺は屈んで、そいつの目を覗き込んだ。

「じゃあ、家まで着いて行っていいかい? 礼するからさ」

 女は上体をめいいっぱい引いて固まった。
 俺は口の端を上げる。

「冗談だよブス」

 恐怖で固まっていた顔がゆっくりと怒りに変わっていく。
 その時だけ辛気臭い面が、生気を取り戻したように見えた。

「ハッハッハッハ!」

 ひさしぶりにツボに入って、立ち上がって大声で笑った。時刻表に寄りかかって俺はひとしきり笑い続けた。

「ハッハ、ハハッ、はあ、ところでバッグどこやった?」
「……あれ、バッグ。あれ?」

 ベンチの端に引っ掛かっていた革鞄が消えている。
 俺は黙って観察する。ベンチの周りをくるくると回りながら女はそれを探す。

「ほれ」

 俺は『隠していた腕』を出した。

「あ」

 前開きのジャンパーの下に自分で袖を増やしたシャツ。
 一番細い腕は、かすめ取ったバッグをそいつに返した。

「四本もあるからしつけがなってなくてね」

 『四つ腕』は生まれた時からだった。
 たまに命令信号がバグってけいれんする、最初にかかった医者は言ってた。今回は完全に狙ってやったが。
 札は一枚残してやっている。

「な? 助けて損だったろ」

 驚いた表情のまま口が空振りし続ける女を置いて、俺は路地に入った。この先は『集落』へ続く。

 俺は見慣れていた。あの伏せた目が何なのか。
 憐憫だ。

 背後に気配はない。一歩でもこの路地に入って来てたら、殺していいならぶち殺していた。

 通りに抜けると見慣れた薄汚い景色が広がっていた。混じり物共の集まる地域はどこも錆びついていて、傾いた建物が並んでいる。
 後ろ手に回したデカい方の腕は乾物ババアからスリ取った財布があった。

 巣に帰ってさっさと寝ちまおう。



 『殺し』は滅多に受けない。
 どうしようもなくムカついた奴は個人的に殺す時はあるが、後処理が手間だ。
 だからケツまで面倒見てくれる会社に入ったは良いが、どうも何か物足りない。

 混じり物もそうじゃない人間も皆殺しにしてやりてえのに、なぜこんな場所で俺は飼われて、くすぶっているんだろうか。
 そう思う瞬間はある。



 顔は美人だが辛気臭い。ナンパでも狙わない。あんな奴は『集落』で腐るほど観て来たメンドクサイ女の類に決まっている。
 だというのに、ダチ共の中にそいつが混ざっていた。

「おい、そこの」

 ほとんどはまだ自分で生業も持てない奴らだ。中には成長が遅いだけの年上も居る。そいつらと遊んでいたら、いつの間にかあの白い女がいた。
 俺が朝から大声で「だーるまさんがー」と叫んでいたのもコイツは聴いていたわけだ。

「お前何してんだ」
「あ、はい。アウトですか」

 たしかにふらついてるけども。

「何してんだって聞いてんだよ」
「……仲間に入れてくれませんか?」

 女の周りにいるダチは真剣な表情で、遊びの続きを待っている。

「チッ」

 俺は舌打ちして、そいつの腕を引く。
 片手で握りつぶせそうなほど小さな手だった。

「あ」

 注意して軽く握ると、もう一度目を瞑って俺は叫ぶ。後ろで小さな命達が、くすくすと笑って、うごめく気配がする。



「私、エルレシアと言います」
「おう」

 別にこっちが名乗る義理はない。黙って一番安い缶ジュースをあおる。

「この近くに四本腕の人が居ると聴いてはいたのですけど、人違いだったらどうしようかと」
「だよなあ、四つ腕だけじゃわからねえよな……いや馬鹿かお前。そうそう居ねえっての」

 そいつは肩を揺らして笑う。死体と見間違うほどの白いツラだが、表情を出す時だけは生気を吹き返して見えた。
 渡した缶ジュースを祈るような形で包んでいる。

「おひとりで面倒見てるんですか?」
「いや、こいつらダチだから。面倒はどいつも手前で見るんだよ。特別扱いはなしだ」
「そうでしたか」
「バス停まで案内してやる。テメェと風俗で再会したくねえからな」

 俺の冗談にも女は首をかしげるだけだった。
 どこの姫様だこいつは。

 だいたいの方向は覚えていたんだろう。歩く女の三歩後ろについて見守ってやる。

「観光はやめとけ」

 お決まりの忠告。

「たまーにここへカメラ構えてやってくるやつが居るのさ。現実を捉えるには足らねえよ。どこだって地獄だよ」



 もう来るなよと何度釘を刺してもそいつはやって来た。
 いっそ襲って殺してやろうかと思うくらいに。

「これネコさん、これドラゴン!」
「上手だねえ」
「ドラゴンが来てね、たたかうネコさんいっぱいだから、これチョーク持って!描いて!」
「猫さん戦うんだ。いっぱい描くのね?」

 せがまれてチョークを白い指先でつまむ。割れた舗装の輪郭に目玉とギザ歯が描かれたドラゴン。それに立ち向かう落書きの猫がちまちま並んでいく。
 ふと、女は立ち上がって薄いカバンからファイルを取り出した。

「新しい養護施設のスタッフを探してます。この子達が全員移っても充分な規模なんですよ」
「ふうん」

 握りつぶした。

「なにしてんだよアニキ!」

 背後のひろ坊が叫ぶ。

「駄目だ。こんなところで生きていけるはずがない。こんなもんは偽物だ」

 女は珍しく眉を吊り上げていた。

「それでも、少なくともここよりは開けています」
「ああそうだ。見えねえ柵を間に置いて、憐みが金になるのを覚える」

 切れ長の目が見開く。

「こいつらにくっついてる大人共とお前らは何が違う? ショーやってキフ貰って、価値がなくなるのを見越してジリツしろつって叩きだすんだろが。こんなもんはな、てめえらが暗がりを見たくねえから作るんだよ。焼き払うだけじゃバツが悪いからこうすんだろ。特別扱いすんなっつったよな?」

 俺も珍しく頭に来てたのかもしれない。いつもの口喧嘩とは違うのがわかっていた。

「てめえらの作った地獄と折り合って、上手く生きていく奴も居るだろう。でも俺達じゃない。てめえらの自己満足のために俺達を使うんじゃねえよ」

 丸めた紙切れを女に投げつける。

「わかったら帰れ。二度とここへは来るな」

 殺すぞ。
 口には出さなかった。言えばこいつはムキになる手合いだ。なおの事、幼いこいつらを『救い出そう』と動くに違いない。

 女は下唇を噛んで、耐えながら振り返った。表側へ出ていく。

「ザッド兄ぃ、しせつと道は違うと思う」

 見えなくなってから、ひろ坊がつぶやく。

「おう、ほどこされる時間が違うな。そんなもん脳が腐っちまう」
「でもさあ、むーちゃんマンガ家になりたいって言ってたよ」
「ともやんは先生だって」
「しせつに入れてもらった方が、なりやすいんじゃないかな?」
「……」

 考える時間が欲しかった。いや、いくら考えてもこいつらをあの女に預けたりはしねえけど。

「行きたかったら勝手に行きゃいいだろ。そりゃあ、美人が言うことのほうを信じたいだろうな」
「すねてる?」
「すねてねえよ」



 昼になってもまー坊が広場へ来なかった。
 錆びついてるがまだ他よりは小奇麗なアパートへ迎えに来た。体調を崩したのなら高価な飯でも買ってきてやろうと思っていた。

 まー坊の、その首を絞めてるのは、まぎれもなくそいつの父親だった。

「なにしてんだてめえ!」

 羽交い絞めにしてやめさせる。まー坊の顔は真っ青だった。
 母親がすぐそばにいた、包丁を持って。その前にこいつを差し出す。

「そうだ、殺せ。あんたが仇取るんだ」

 いったい何が起こったかわからなかった。
 母親は、首を絞めていた当の本人ではなく俺を刺した。

「ごめんなさい」

 震えた声で叫ぶと、夫の手を引いて、さっさと逃げて行った。

 横倒しの視界には、眠るようなまー坊の死体が見える。薄れる意識の中で語り掛けた。

「なあ、たまったもんじゃ、ねえよ、な……」




 意識が戻ると病院に居た。
 ベッドから起き上がれねえまま、首を横に曲げるとあの女がいて、最悪だった。
 一向に出て行かないので、仕方なしにそいつに独り言を聞かせることにした。

「母親はみんなガキの味方だと思ってた。俺がそうだったから。馬鹿だよな。例外を何度も見てるのに。家族なんて、どこも違うのにな」

 言いたかったことはなんだったのか。

「現実なんて誰も知らねえよ。見えてるのは、自分が見て来たものだけだ」

 てめえをてめえで皮肉って、笑う。
 腹の傷がじわじわ痛んだ。


 病室では水を飲む以外なにもやることがない。気が付けば昔話ばかりしてしまう。気が滅入ってるんだ。
 あいつが目を離した隙にベッドから抜け出した。
 入院中の子供に絡まれて足止めを食らってるところであいつが気付いた。

「ガキなんて邪悪だろ。嘘つくし、怒るし泣きわめくし」
「その感情とどう向き合うか教えるのが、大人だと思いますよ」
「……フン、面倒臭いな」

 危ないことはやめましょうねと、そいつはガキに言って別れた。



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