"弓を引く男_2"



 男は社会人向けの道場に指導者として通っている。
 型を教えて、必要な力の入れ方を教えて、それだけのことだ。

「ぼーっとしていることが多いね、先生は」

 自分より年寄りの生徒からよく言われる。
 しかし無為な釣りをしていた頃よりは、少し呼吸がしやすくなった。

 ある日、『彼女』が来ていた。

「どうですか」
「……これで、これが正しいのだと、思う」

 この世界において。
 自分に決められた型にこれが近いのだろう。

「でも違う気がする。俺が求めてるものとは」
「なにを求めてるんですか?」

 わからない。

「わかったら教えてくださいね」


 弓を片手に。的に向けて矢を番える。
 浅く続けていた呼吸を、少しずつ抑えていく。鏃に乱れが無くなる。

 引き絞った矢は同心円の中心から、少し右を射抜いた。

 生徒が拍手している。
 男は呼吸を再開する。

 完璧ではない。
 完璧ではないが、生徒は喜んでいる。
 また少し呼吸がしやすくなった。




 雨が降っていた。
 彼女がいた。傘も差さず。
 男は弓を手に、矢筒を下ろさぬまま、彼女と相対した。

「本当は、誰も俺を責めてはいなかった」

 一歩踏み出す。

 天から落ちて来た無数の水の矢に体は射抜かれた。

 土砂降りは一気に頭と肩口を覆い全身を濡らす。

「自分で耳を塞いでいた。俺を殺していたのは、俺だった。俺に罵声を浴びせ認めなかったのは、まぎれもない俺自身だった」

 距離を詰めようとは思わなかった。
 これが適切な距離だ。この土砂降りだろうと、きっと、届くはずだ。

「俺の耳は、俺の目は、この世界を地獄だと感じた。世界はそういうものだと思って諦めていたから、だから」

 彼女は傘を差していない。
 だが『濡れていなかった』

「つまり……!」
「その通りです」

 『彼女』は微笑む。

「見えましたか、私の正体」

 光が拡散する。

 神の片鱗が世界に拡大していく。
 男は弓矢を番える。
 彼女の周りの雨が無数の矢に変わる。
 粗く吐いた呼吸を、少しずつ抑えていく。

 この地獄は。

 鏃の乱れが無くなる。







 引き絞った矢は、同心円の中心を射抜いた。

 生徒が拍手している。
 男は呼吸を再開する。

 一度に使える矢の本数も増えれば、もっと呼吸は楽になるかもしれない。

 男はそう思いながら、日常を再開した。



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